●高句麗 こうくり
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古代朝鮮、三国時代の王国の一つ。中国東北と朝鮮半島の接壌地域、鴨緑江の大支流トウ※注1※佳江畔の桓仁(中国遼寧省)付近を中心に建国されたツングース系の貊族の国家。『三国史記』によると、前漢の孝元帝の前37年(建昭2)に始祖東明聖王(朱蒙)よって建国されたという。日本では古来「狛」の字をあて、「こま」と呼び慣わしている。高句麗という国名の由来は、「高」は「ku」の写音であり、“広大”の意、「句麗」は「忽」「溝婁」と同音で、「kol」「keul」の写音で、“城邑”“都城”の意、“大いなる城邑、都城”からきているという。
【建国伝承】「好太王碑文」の冒頭には始祖鄒牟(朱蒙)の建国であり、北扶余の出自、父は天帝、母は河神の女、卵を剖いて誕生したと述べている。始祖朱蒙の父は解慕漱(かいぼそう)といい、天帝の太子であり、従者とともに熊心山に天降ってきた。彼は青浦(鴨緑江)の河神の3人の娘の水浴の最中、呪力によって長女柳花を捕え、これと私通する。のち柳花は日の光を感じて懐妊し、左脇から大卵を生む。これが高句麗の始祖朱蒙である。朱蒙は幼児より弓の名手であり、そのため扶余王の太子に妬まれ、王に讒言される。そこで新国を建てようと思い、南へ逃亡する。淹滞水という大河の畔まで逃げのびてきたとき、扶余の追兵が迫ってきた。しかし、そこには舟も橋もなかった。朱蒙はもっていた鞭で天を指し救いを求めた。すると河面に多くの魚や亀が浮き出し、たちまち橋をつくった。朱蒙が河を渡り終え、ややしばらくして追兵が到り、その橋を渡り始めたところ、忽然として橋は消滅し、すぐに橋上にいた者は溺死した。その後、朱蒙は母、柳花の使者、2羽の鳩のもって来た五穀の種子を手に入れ、国造りを始めた。しかし、以前からこの地方を統治していた沸流王松譲と支配権をめぐって争いがおこるが、朱蒙はその神異を示し、松譲を圧倒、屈服せしめる。朱蒙は鶻嶺の上に、天の力を借りて、城廊と宮殿をつくり、王位にあること19年、40歳にして天に昇り、再び降りて来なかったという。この建国伝承は扶余の建国伝承とモチーフを同じくしているが、ツングース族独自の北アジアの日光感情伝承と、南アジア的な卵生伝承の複合しているところにその特異性がある。また「魚の橋」の構想は北アジア的な文化要素であるとの指摘もされている。
【歴史】高句麗の全歴史は一般に次の3期に区分できる。第1期、卒本時代(中国遼寧省桓仁付近に国都、前37?〜後209)、第2期、丸都時代(中国吉林省集安に国都、209〜427)、第3期、平壌時代(427〜668)。中国の史籍に高句麗の名称が最初に現れるのは前1世紀前半、前漢の第2次玄菟郡(遼寧省永陵付近)の主県、「高句驪県」としてである。玄菟郡は本来中国遼東から日本海沿岸に出る交通路を扼する目的で朝鮮の咸鏡道方面に設置されたものであるが、ワイゾク※注2※・バクゾク貊族の興起により移動を余儀なくされ、遼東山地、蘇子河上流域に退いたものである(75)。この玄菟郡の移動は明らかに高句麗の建国と関係しているという。第1期卒本時代の始期はこの時期に設定できる。後1世紀初め、王莽時代に至って中国の史籍に現れる最初の高句麗王、「スウオウ※注3※」の名が見える。スウオウ※注3※は辺郡の紛争に関係して辺将厳尤のために謀殺される。この王は朝鮮側の記録にある始祖鄒牟(朱蒙)と関連していると考えられる。1世紀後半、宮王(太祖大王、在位53〜146)の時代になると、宮王はしきりに遼東方面を侵犯する。第2次玄菟郡を攻撃し、遼東山地から撫順方面に移動せしめたのはこの王のときである(106)。また、半島の東海沿岸に進出し、沃沮族・ワイゾク※注2※を支配下に置いた。2世紀後半、後漢末に遼東には公孫氏が自立する。高句麗は公孫氏の攻撃を受けるとともに、王位継承の問題も発生し、内部分裂に見舞われる。その危機を回避して、10代山上王延優(伊夷模、在位197〜227)は卒本から、鴨緑江中流域の丸都(国内城)に遷都した(209)。三国時代に入ると魏は遼東の公孫氏を滅ぼし(238)、次いで将軍母丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の首都丸都を占領した(244〜245)。東川王憂位居(位官、在位227〜248)は身をもって沃沮の地に逃がれるが、魏軍が引き揚げた後、国都に帰り国を再興した。西晋の末、美川王乙弗(在位300〜331)の代、中国華北は五胡の侵入で混乱するが、これに乗じて楽浪郡を攻略(313)、後の雄飛の基礎を獲得した。故国原王代(在位331〜371)、342年鮮卑族慕容氏の前燕王コウ※注4※が、国都丸都を占領。前王美川王の陵墓を暴き、遺骸をもち去るとともに王母及び王妃を拉致した。翌年、王は臣を称して入貢し、父王の遺骸を返還して貰うと同時に、征夷大将軍・営州刺史・楽浪公の称号を授与され、冊封関係に入る。南方では礼成・臨津両江で百済と対峙するようになっていたが、百済の近尚古王は平壌を急襲、故国原王は防戦中に戦死した(371)。その領域はいったん慈悲嶺付近に後退。前燕は370年前秦の符堅に滅ぼされ、高句麗は前秦に入朝。小獣林王代(在位371〜384)、前秦から僧順道が派遣され、仏像・経典が伝えられる。国都丸都には尚門寺・伊弗蘭寺が建立された。また律令が公布され、太学が創設されたのはこの王代である。好太王(広開土王、在位391〜412)に至り、高句麗の国勢は一段と伸長。後燕と戦い、新城(規撫順)・遼東城(現遼陽)を占領。東扶余を併合(401)。南方、百済へもしばしば侵攻、百済・倭の連合勢力に大打撃を与え、漢江以北を回復。また新羅の奈句王をも服属せしめた。次の長寿王は一層の国土の拡大に努め、427年丸都から平壌に遷都し、西方では遼東の平原を完全に版図に入れ遼河でもって北魏と国境を接した。575年百済の国都漢山に侵攻し、百済の蓋鹵王を捕殺。百済を熊津に南遷を余儀なくさせた。次の文咨明王代を含め、この3代120年間が高句麗の全盛時代であった。高句麗の南下に脅威を感じた百済・新羅は接近、551年百済中興の英主聖王と、新羅の真興王は提携し、竹嶺を越えて漢江上流域の広大な高句麗領を奪取。さらに新羅は百済の占領地を併合し、漢江下流域の黄海への出口を獲得した。次いで東海沿岸地方の高句麗領をも併合。以後、高句麗は百済へ接近、新羅と対抗するようになる。中国に対しては南北両王朝に入朝し、親善関係を保つ。隋が中国を再統一すると、モンゴル高原の遊牧帝国突厥と結び隋と対抗。隋は文帝・煬帝のとき、前後3回にわたって高句麗に侵攻し敗北。そのころ、高句麗では泉蓋蘇文(?〜666)の専権時代であり、もっぱら新羅攻撃に精力を傾ける。唐は高句麗の突厥との提携を恐れ、太宗のとき3度、高宗のときに至って2度の侵攻をするが失敗。作戦を変更し新羅と結び、背後の百済を攻撃、これを滅ぼし(660)、包囲体制を形成、661年陸海から侵入、平壌に迫るが敗北。その後、独裁者泉蓋蘇文が病没、一族の内訌に乗じ、大軍を派遣、新羅もこれに援軍を送り、668年国都平壌を陥落せしめた。国王宝蔵王は降服し、およそ700年に及んだ歴史を閉じた。
【政治構造】丸都時代には桂婁部(国王出自の部)以下4部(涓奴・順奴・絶奴・灌奴)があり、かつては涓奴部から国王が出身し、絶奴部は王妃出身の部であった。各部は旧邑落国家であり、その構造は大首長(大加)が一定領域に存在する邑落共同体を、その首長(諸加)を媒介として累層的に支配するという構造であった。初期政権は各地域の首長層が国王の都邑へ集住するという形態をとっていたらしい。一般の邑落民は下戸と呼ばれ、首長層の貢納制的支配下にあった。平壌時代にも王都に居住した支配層は5部(内・上・下・前・後)に区分され、官職は大対廬以下の12の等級に分かれていた。全領域は5大行政・軍事管区に区分され、諸城には處閭近支、城には婁尚が中央から派遣される3系統の支配構造をなし、その最基底には邑落共同体が存在し、首長層を媒介として地方統治を行っていた。
〔参考文献〕旗田巍『朝鮮史』1951、岩波書店
李基白、武田幸男訳『韓国史新論』1979、学生社
