●航空輸送 こうくうゆそう
AD
【民間航空の再開】わが国の民間航空は第二次世界大戦終結以後連合軍により禁止されていたが,1951年(昭和26)の講和条約発効とともに再開された。それまではイギリス・アメリカなど戦勝国の航空会社が日本へ乗り入れていたが,日本の会社による航空輸送が始まったのはこのときである。日本航空株式会社はノースウェスト航空より乗員つきで航空機をチャーターし,東京を起点として札幌・名古屋・大阪・岩国・福岡へ運航した。この路線はのちに日本の国内航空路の幹線となった。このチャーター運航方式は,1952年伊豆大島でもく星号が事故をおこし,航空輸送の安全体制の確立,日本航空の自主運航を促進することとなった。一方政府としては航空輸送の安全・航空事業の安定・消費者の利益の保護を目的として航空法を制定公布した(1952)。日本航空はそののちわが国の国際線運航を担当する会社として指定され,日本航空株式会社法の制定公布(1953)により政府出費の特殊法人となり,国策として国際線に進出することとなった。【民間航空企業の誕生と再編成】政府が日本航空を国策会社としてこれに出資を決定したのと平行して民間資本による航空会社が1953年以後続々と誕生した。最も主要なものは日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社であってこの両者はのちに合併して現在の全日本空輸株式会社となった(1957)。日本ヘリコプター輸送は最初デハビランド=ヘロン機・DC-3型機を使って主として東日本の幹線・ローカル線を運航し,極東航空はハンドレページ=マラソン機およびダブ機を使って西日本の幹線・ローカル線を運航した。このほかローカル航空を運営する会社として,東亜航空・富士航空・中日本航空・北日本航空・北陸航空・南日本航空・日東航空などが誕生した。これらの中小航空会社は誕生当時は不定期航空会社として免許を取得し,そのうちいくつかはのちに定期免許に切りかえた。1950年代後半はこれら乱立ぎみの航空会社群を統合再編成し空の安全確保とわが国の航空輸送事業の健全な発達をはかるべきであるとの声が政府内にも民間にも高くなった。1964年日東航空・富士航空・北日本航空の3社が合併し日本航空・全日空につぐ国内第3勢力として日本国内航空株式会社が設立され,3社がそれまで各自に保有していたローカル線免許に加え,東京−札幌・東京−福岡の幹線免許が与えられた。しかしながら先発2社との厳しい競争により同社はしだいに経営が悪化した。政府もこの状態を救済するため航空業界の再編成を検討するにいたった。検討の過程では全日空と東亜航空の合併,日本航空と日本国内航空の合併,あるいはこれら4社の大同団結論などが出たが,最終的には1971年,日本国内航空と東亜航空が合併し,日本航空と全日空はそのままという,いわゆる3社体制で現在にいたっている。
【航空3社の事業分野】3社体制の発足と同時に3社それぞれの事業分野についての主張が激しく争われた。すなわち新設の東亜国内航空は自己のローカル線が不採算という理由から全日空のローカル線への進出および日本航空と全日空の運営する幹線への進出を要求した。全日空は東亜国内航空の要求を拒否すると同時に日本航空1社体制の国際線定期事業への進出を求め,日本航空はこれに反対した。このほか1970年代からのわが国の高度成長を背景に急激な成長をつづけている国際航空貨物輸送については全日空と日本郵船・商船三井など大手海運6社が共同で国際貨物専門会社の設立を進めていた。このように複雑化した航空会社の事業分野問題について政府は1970年の閣議了解,そののち1972年の運輸大臣示達により次のように決定し,現在にいたっている。[1]日本航空は従来どおり国内幹線と国際線を運営する。[2]全日空は国内幹線と国内ローカル線ならびに近距離国際チャーター輸送を運営する。[3]東亜国内航空は国内ローカル線を従来どおり運営するほか幹線への一部進出を認められる。[4]国際航空貨物については専門会社の必要につき需要の推移をみて引き続き検討する。以上。この大臣示達により全日空の国際定期進出計画は中断させられ,また国内ローカル線については全日空と東亜国内航空との競合すなわちダブルトラック方式が決定した。なお国際貨物専門会社については1983年設立が認可された。
【ジェット化と空港整備】わが国の国内航空輸送は最初日本航空がノースウェスト航空より乗員つきでチャーターしたマーチン機で行われ,ついでDC−4型機さらにDC−6B型機となった。一方全日空はヘロン機で出発し,まもなくDC-3型機を導入した。このほか中小航空会社はダブ・マラソンなど第二次世界大戦中に使用されたプロペラ機を使用した。そののちバイカウント・F-27などのターボプロップ機の時代があったが,世界の航空機メーカーがジェット機の生産販売を拡大し,また国内航空需要の高成長により大量輸送の必要が国内線のジェット化を推進した。日本航空はすでに1960年より国際線にDC-8型ジェット機を導入していたが,1961年には国内線の東京−札幌にコンベア880型ジェット機を導入。これがわが国の国内航空ジェット化の始まりである。全日空も1964年ボーイング社からリースしたB-727型ジェット機を東京-札幌線に投入し,日本航空のジェット機に対抗した。このようなジェット化はまもなく幹線全体に及んだ。この国内航空のジェット化より2,3年先には日本航空および日本乗り入れ外国航空会社のジェット化も完成していた。このあいだの航空需要の成長は画期的なもので1970年度の国内航空旅客は103万人,国際航空旅客は310万人を突破していた。わが国の空港整備計画は第1次計画が1967〜72年,第2次計画が1971〜75年,第3次計画が1976〜80年となっている(第1次の終わりと第2次の始めはオーバーラップ)。第1次計画は東京と大阪の第一種空港の滑走路延長をはじめとして,第二種空港(鹿児島・長崎・函館など)も2,000m滑走路となり,ジェット化へ進んだ。しかし第2次,第3次計画では国内の主要ローカル空港のすべてがジェット化され国内航空輸送の飛躍的発達に役立った。
【初期の国際線】わが国の国際航空輸送の始まりは1954年2月2日日本航空のDC-6B型機による東京−ホノルル−サンフランシスコ便第1番機である。これに先立つ1952年には日本航空・飯野海運・大阪商船の3社からそれぞれ国際航空輸送事業の免許申請が出されていた。政府はこれを当面1社にしぼり,さらに所要の国家援助を行うという方針を固め,1953年7月には日本航空株式会社法が成立し,それまで民間会社であった日本航空は政府出資の特殊法人となりまた国策として国際航空輸送を担当することとなった。初期の国際線は日本航空がトランス=オーシャン航空より派遣された外国人パイロットで運航されたが関係者の懸命の努力により1955年12月には待望の日本人国際線機長が誕生した。日本航空は1年後の1956年には香港線を開始した。香港線は1956年にバンコクへ,1958年にはシンガポールへ延長され,東南アジア線運営の基盤が確立した。一方太平洋では1959年5月ロサンゼルスヘ,同年6月にはロサンゼルス乗り入れを開始し,初期の太平洋路線網が完成した。
【韓国線の開始】日本航空の東南アジア路線は香港・バンコク・シンガポールに加え,1960年代には台北・ジャカルタと新たな乗り入れ地点を増やしつつあったが,隣国である韓国へは日韓両国間に戦後正式な国交回復が遅れていたため航空路開設も遅れていた。この結果戦後20年近くにもなろうというのに日本と韓国の航空輸送はアメリカのノースウェスト航空および中華民国のCAT航空が独占していた。このような状況下で日本航空は国交回復をまたずに民間ベースの協定で日韓空路開設を決意し,韓国の大韓航空と民間協定を締結し,1964年4月15日同社のコンベア880型機はソウルへ乗り入れた。一方大韓航空もこれに先立ち同年3月に大阪へ乗り入れた。
【欧州線・シベリア線】日欧間の航空輸送は戦後長いあいだBOAC(イギリス)・エールフランス(フランス)・KLM(オランダ)・SAS(スカンディナヴィア3国)などの欧州系航空会社が一方的に運営していた。これは日本航空が太平洋や東南アジアの航空路開設と充実に忙しく欧州に手が及ばなかったからである。日本航空の欧州線運営は1961年6月6日DC-8型機でコペンハーゲン・パリ・ロンドンの3都市へ北回りで乗り入れを開始した。この北回り便はまもなくハンブルク・アムステルダムに延長された。一方,南回り欧州線は翌年の1962年10月4日,香港・バンコク・カルカッタ・カラチ・カイロ・ローマ・フランクフルト・ロンドンの各地へコンベア880型機で開始された。使用機種はまもなくDC-8型機に変更された。この北回り・南回り線の開設で日本航空は世界の主要都市に乗り入れ世界の翼となった。この時期に台頭したのがシベリア線計画である。戦後日本とソヴィエト連邦との国交は1956年10月の日ソ平和条約締結で始まったが両国を直航で結ぶ航空路はなく,日本からソ連を訪問する旅行者はロンドンやパリに飛びそこでモスクワ行きの便に乗り換えるという片道20時間以上の不便にさらされていた。そこで東京とモスクワをシベリヤ上空通過で結ぶ計画が日本とソ連で並行して進められていた。1961年1月 日ソ両国政府は日ソ航空協定に調印しシベリア上空の外国航空会社への開放への第一歩となった。この協定により,日本航空とアエロフロート航空は初期の2年間をアエロフロート機による日ソ共同運航で実施し,しかるのちに日本航空機による自主運航に切り換えられた。シベリア上空の開放は単に日ソ両国間の交流を便利にしただけでなく,日本とロンドン・パリ・フランクフルト・ローマなどの西側地点への航空便がアンカレジ経由北回り便より4,5時間短縮され日欧間の交流も一段と促進された。日本航空とアエロフロートの両者は政府間協定につづいて共同運航協定・プール協定を締結し実務レベルで協力推進した。その後シベリア線はイギリス・フランス・ドイツなど西側諸国の航空会社にも開放され世界の航空幹線となった。
【日中空路・日台空路】わが国と中国は隣国同士でありながら戦後20年以上国交がなく,したがって航空路もなかった。両国の国交回復以前でも民間の貿易などの交流はあったもののたとえば東京から北京へ行く旅行者はまず香港へ飛び,ついで陸路広州へ行き,広州から中国民航機で北京へ飛ぶという2日がかりの旅をしなければならなかった。1971年中国の国連参加,翌1972年には日中国交回復が行われた。これに伴い日中航空協定が1974年4月に調印され,同年9月29日日本航空の上海・北京行き第1便が東京を飛び立った。日本と台湾のあいだにはそれまで正式の国交があり,航空旅客も年間に40万人というきわめて高い数字であった。したがって日中国交回復・日中航空協定成立という状況下でも日台間の航空輸送は継続されるという了解が日台の関係者間で成立していた。しかし上述の日中航空協定調印にさいして日本外相の台湾国旗使用についての談話が発表されるとこれが台湾を強く刺激し,両国企業による航空輸送は日中航空協定調印の翌日から中断された。日台空路断絶のあいだはキャセイ航空などの第三国企業の独占となっていたが,このあいだ日台両国の航空関係者の努力により1年後の1975年7月財団法人交流会(日)と亜東関係協会(台)のあいだで民間航空再開の取り決めが結ばれた。この結果日本側からは日本航空の関連企業である日本アジア航空が,台湾側からは中華航空が相互に乗り入れを再開した。
【オセアニア線・南米線】日本航空は1960年代後半から国際線の拡充を行い,たとえば太平洋線ではニューヨーク乗り入れ,世界一周線(1970年中止),バンクーバー・シカゴ乗り入れを行い,欧州ではチューリヒ・マドリード・アテネへ乗り入れた。文字どおり世界のトップ=クラスに入った同社は残された地域として1969年シドニーへ,1980年オークランドへ進出し,また1978年にサン=パウロヘ乗り入れた。この拡大計画の達成により同社の国際線はアフリカ(カイロを除く)以外の大陸を隅なくカバーし名実ともに世界の翼となった。
【全日空の近距離国際チャーター】全日空は国内幹線およびローカル線運航の充実につれ1960年代後半より国際線進出の意向を示していたが,1970年の閣議了解,1972年の大臣示達により近距離国際チャーターが認められた。全日空の国際チャーターは1971年香港行きが第1便である。以後同社は長距離用のB-727-200とロッキードトライスターL-1012を使用してマニラ・バンコク・シンガポール・北京・上海などへ飛び1983,84年にはそれぞれグアム・ホノルルへ飛んでいる。出発地は成田・大阪では発着枠がないため,仙台・名古屋・熊本・鹿児島などのローカル空港に限られたが,運輸省のチャーター規則が改正されてITC(包括旅行チャーター)が可能となり,旅客を公募できるようになったため地方都市では人気を博した。
【南西航空・日本近距離航空】幹線および主要ローカル線は前述の3社が運営しているが,この3社のほかに特殊なローカル線を運営する会社として沖縄県内の諸島を結ぶ南西航空,北海道や本州内の離島辺地への航空輸送を担当する日本近距離航空がある。第二次世界大戦の結果沖縄県は米軍の軍政下に置かれていたが,県内の諸島を結ぶ航空の便は不可欠であった。1966年エア=アメリカが不採算を理由に琉球列島の航空輸送事業を中止すると米軍政府としては列島間の足を確保するため新たな後継者を探さなければならなかった。これに応じて日本航空とアロハ航空が競合請願したが,1967年6月20日,日本航空と地元資本との合弁で南西航空株式会社が設立され,軍政府はこれに琉球列島の定期航空事業免許を与えた。南西航空は最初YS-11機主力であったがその後B-737ジェット機とツインオッター機にかえた。わが国南端の諸島を結ぶ足として同社の公共的役割は大きい。北海道の辺地,佐渡・伊豆諸島では航空への依存が大きいにもかかわらず,主として経済的理由でその対応が不十分であった。1972年北海道でおきた横浜航空の事故を機に安全な離島辺地航空輸送事業の確立が叫ばれ,航空審議会の答申にもとづき,政府は横浜航空を再建強化するため全日空の援助のもとに1974年日本近距離航空株式会社を設立させるにいたった。離島辺地の航空輸送は採算上決して容易な事業ではないが,南西航空と同じく離島辺地の経済社会に不可欠の役目を果たしている。
【戦後の国際航空】第二次世界大戦後の国際航空は戦争で疲弊した世界経済の復活に重要な役割を負わされた。戦争中に開発された航空機材・航空技術・飛行場などはそのまま航空輸送事業の発達に生かされた。たとえば戦前の輸送の花形であるDC-3型機は30名前後しか運べなかったが,戦争中に開発されたDC-4型機は50名,さらに戦争直後登場のストラトクルーザー機・DC-6型機・スーパーコンステレーション機は50〜60名を収容でき輸送力が倍増した。また航空機の航続距離が伸び,航法が進歩した結果,大西洋や太平洋のような大陸間の洋上飛行が楽になった。たとえば1946年にはTWA・SAS・KLMなどが続々と大西洋を越えてアメリカと欧州を結び,1947年にはパン=アメリカン航空は世界一周線を開始した。このような世界の航空事業の発達の機運を背景に1946年には国際民間航空機構(ICAO)が誕生し,加盟国間で技術的な協力・規格の統一・運輸権の確認などが決められた。さらにICAOの関連民間機構としてICAO誕生に先立って戦前結成され戦時中休止していたIATAが復活し,運賃の統一協定や商業上および技術上の協力が加盟航空会社のあいだで取り決められた。戦争末期に開発されたジェット機は戦後に継続され,民間機としてはコメット機が早くも1950年に登場し,1952年にはBOACが使用を開始した。同機は1953年以降事故が続発しついに1954年就航中止となったが,改良型コメットIVは1958年に再登場している。アメリカの航空機メーカーもジェット輸送機開発に乗り出し,B-707型機が1959年に,DC-8型機は1960年に就航している。このほか初期のジェット機としてはコンベア880型機(アメリカ)・VC-10型機(イギリス)などがあるが,B-707型機とDC-8型機の2機種は1980年代の現在まで使用されている。ジェット機の登場により飛行時間は半分に短縮されるとともに,輸送力はプロペラ機の2倍以上に増加し,大量輸送時代が始まった。
【新空路の開拓】大西洋・太平洋・南回り空路は戦前からのものであるが,航空機の航続距離の改良・航法の進歩などにより戦後新空路が開拓された。北回り空路は最初は1954年アメリカとスカンディナヴィア三国のあいだにグリーンランド経由で開かれた。これはSAS スカンディナヴィア航空によるものであるが,同社は1957年にはコペンハーゲンより北極経由で東京への空路を開設した。この北回り飛行は最初はDC-6B型機,ついでDC-7型機といずれもプロペラ機で行われたが南回り欧州線が30時間以上かかったのを24時間に短縮した。さらに1961年ごろはSAS・エールフランス・日本航空が相次いでDC8・B707などのジェット機を投入し日欧を結ぶ急行幹線空路として現在にいたっている。
北回り空路と並ぶ新空路の開拓としてはシベリア上空を通過してモスクワ経由で日本と欧州を結ぶシベリア線が1961年の日ソ航空協定締結,1967年の日本航空・アエロフロート商務協定調印により両者の共同運航第1便が同年4月18日に羽田へ到着した。以後日本航空の自主運航,エールフランス・英国航空など西側企業への開放があり,シベリア線は北回り線につぐ日欧間の第2の幹線としてこんにちにいたっている。
【ジャンボ機時代】DC8やB707ついでDC9・B727などのジェット機時代をへて世界の航空産業はジャンボ機あるいは広胴機の時代へ入った。1969年2月ボーイング社は大型輸送機B-747ジャンボ機第1号を完成した。またボーイング社につづいてロッキード社がL1011型トライスター,マクダケルダグラス社はDC-10型機計画を発表し航空会社はいっせいに100〜500名収容の広胴機導入に踏み切った。このような超大型大量輸送時代を迎える反面,1970年代前半にはイギリス・フランス共同製作でエールフランスや英国航空が使用している超音速機コンコルドは両社以外の航空会社は経済上の理由で導入をやめ,この両社のコンコルド便も頭打ちとなった。ジャンボ機そのほかの登場により世界の航空事業は供給力が飛躍的に増大し,需給バランスが崩れて各種の低運賃が登場した。加えて1972年および1976年のオイル=ショックで航空需要が伸び悩む一方,燃料費が急上昇して航空会社の経営は戦後初めての厳しい不況に直面した。
【規制緩和政策】1969年アメリカ大統領に当選したカーター氏は選挙民の支持と議会の協力を得て航空事業の規制緩和政策に踏み切った。これは従来許認可で規制してきた航空事業の規制を緩和あるいは廃止するもので具体的には,[1]航空会社の資格規制の撤廃により定期不定期の免許区別がなくなり,[2]路線免許の自由化で各社は自己の欲する路線に自由に乗り入れができる,[3]運賃認可の廃止で各社は運賃の引き下げ引き上げが自由にできる,などをおもな内容としている。この結果アメリカの国内航空は多くの路線で厳しい自由競争が始まり,何十種類の低運賃が導入され,旅客は自分の条件に合ったサービスと運賃を選択できることになった。アメリカ政府は国際航空界にも規制緩和政策の導入をはかり外国政府と激しい航空交渉に入った。もちろん日米交渉でもアメリカの規制緩和策とこれに反対する日本政府の数次にわたる交渉が行われ,1985年現在でも交渉は継続している。アメリカ政府は運賃自由化政策の障害としてIATAの運賃協定を不認可とし,パンナム・TWAなどアメリカの航空会社はIATAを一時的に脱退した。危機に直面したIATAは緊急総会を開いて抜本的改革に乗り出し,運賃協定の緩和やサービス内容の自由化を行ったが規制緩和政策への対応やNON−IATA航空会社の成長に押されて,IATAの運賃規制能力は低下した。規制緩和政策は航空事業への保護規制の廃止・消費者利益の保護拡大・行政機構の縮小につながるものでアメリカについでイギリス政府も同じ方向に踏み切り,日本でも航空会社の事業分野に関する1972年の航空政策の再検討が行われている。