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航空発達史 こうくうはったつし
【日本の航空界−草分け時代(幸吉のはばたき機)】さて,日本の状況はどうであったか振り返ってみよう。わが国にも古来から,飛行にまつわる伝説がたくさんある。その代表的なものは,およそ200年前の岡山の浮田幸吉であろう。国文学者菅茶山(1748〜1827)の著した『筆のすさび』(1836,天保7出版?)に〈備前岡山表具師幸吉というもの,一鳩(イッキュウ)を捕へて其身の軽重,羽翼(ウヨク)の長短を計り,我身のおもさをかけくらへて自ら羽翼を製し,機(カラクリ)を設けて胸前にて操り搏(ウチ)て飛行(ヒギョウ)す。(中略)地より直(タダチ)にアガ※注1※ること能はず。屋上より羽打ちて出ず。(後略)〉。そして結末は,役所から「人のせぬことをするは一罪なり」と両翼を取り上げられ居住地から追放された,とある。幸吉に関する文献はほかにもあるが,いずれも『筆のすさび』の範囲を出ない。飛行時期は1785年(天明5)6月の説もある。これらの資料から判断されるのは,幸吉機は鳥の翼をまねた人工の羽根で単に羽ばたき降下しただけのようである。これを“日本最初の飛行”とする説もあるが,他項でも述べているように明らかにいきすぎである。はばたき機は航空機のなかでも難しい機種であり,幸吉機も,古今東西に山ほどもあるはばたき機の失敗例の一つにすぎない。このころから明治初頭にかけて外国人の往来に伴い,外国航空界の情報がおいおいに日本にも伝わってきたことは,いろいろな文献にみられる。そしてわが国でも,気球・飛行船をつくって飛ばせたいという熱気が,政府にも民間のあいだにも盛り上がってきた。
[1]国産の気球 わが国でも最初に空へ昇った航空機は気球である。1877年(明治10)の西南の役のさい,政府は,官軍側の偵察や連絡のための有人気球を考えた。同年6月に,命を受けた工部大学校(今の東京大学工学部)では,無人気球を2個試作したが,飛揚に失敗した。次に陸軍では,海軍兵学校に石炭ガス気球と水素ガス気球各1個の製作を依頼した。直経約9m,高さ約13.5m,容積382立方m,風袋には奉書紬60匹にゴムを4貫目塗りつけたものを使った二人乗りである。同年5月21日に公開飛揚に成功し,日本初の有人気球となった。搭乗者は馬場新八ほか5名が一人ずつ交替した。陸軍自身の気球は水素ガス気球で,容積297立方m,乗員2名,費用1万円をかけて同年9月に完成したが,整備に手間どり公開飛揚は翌年6月に持ち越された。気球の研究は1900年(明治33)から,陸軍工兵会議で理学博士田中舘愛橘(?)(1856〜1952)・工兵少佐河野長敏・工兵大尉徳永熊雄(?)・民間研究家山田猪三郎(1863〜1913)らによってつづけられることになった。翌年12月には直径7.2m,全長33m,容積693立方mの凧式気球が完成し,高度400mまで上昇して写真撮影もやり,実用価値を認められた。1904年(明治37)に日露戦争が始まると,同型の気球2個が新製された。同年6月には,中野電信教導大隊のなかに臨時気球隊が編成され,ドイツ留学から帰国した河野長敏中佐が初代隊長に任命された。同隊は旅順攻囲軍に配属され空中偵察に活躍した。これがわが国の航空部隊の始まりである。
[2]二宮式人力機 愛媛の二宮忠八(1866〜1936)は,1889年(明治22)に鳥の飛ぶ様子を観察してから,飛行する機械の発明に熱心に取り組んだ。1893年(明治26)に“鳥型模型飛行機”を紙で試作したが,資料によればゴム線を巻いて舟のスクリューのような形のプロペラを回すものである。実機の動力源について二宮は〈大気の抵抗に勝るべき力を与えうる器械を設け〉とあるだけで,実際には考えつかなかった。二宮は翌1894年8月に,陸軍に対して飛行機製作の上申書を出した。そのなかに〈(前略)然れども元来,下官(注:二宮のこと)は図学並に工事に暗く,只一片の意匠心に頼み以て成工を期したり。(中略)右申述候如く工事の心得なきものに付,実用の大物を製造する等は到底専売業者(注:メーカーのこと)の手に依らざるを得ざる義に有之侯。云々〉とある。しかしこの上申書は却下されたので,二宮は1895年(明治28)から自力で数種の模型を作りあげた。これは,足踏みぺダルによりプロペラを回して飛ぶというこんにちの人力飛行機であった。二宮は,ライト兄弟の飛行成功(1903)を聞いてから研究をやめてしまい,実機は一つもつくらずに終わった。後年,国粋主義が高まったとき,政府は二宮に対して,上申書を却下したのは不明のいたりであったという詑び状を送り,二宮を航空先覚者として表彰したことがある。このことから,わが国の一部では,二宮をさして“ライト兄弟よりも早い世界的航空先覚者”とする説がいまだにあとを断たない。しかし航空史を冷静に読めば,1.欧米では,1840年代からすでに合理的なグライダーや飛行機のジャンプ飛行に成功した者が続々と出現していること。2.現代の工学的検討では,二宮考案機はいずれも飛行不可能と判定されていること。3.実機も作られずまったく飛行しなかった者と,実機をつくり実際に飛行した者とを同列に讃えることは不当であること,などの観点から,上記の過大なほめ方は否定されている。
[3]山田式飛行船 和歌山出身の山田猪三郎(前出)は,かねてから気球製作所を設立して陸軍に納品していた。1910年(明治43)に,独力でわが国初の飛行船の製作に着手した。長さ30m,直径9m,容積1,000立方mで,エンジンは自動車用を改良した公称14馬力のはずが実質8馬力という代物だった。同年10月8日に中神建策が搭乗して,東京の大崎から駒場までの6kmを1時間20分で飛んだ。この年にドイツでは,飛行船で航空輸送事業を始めた(前出)ことを考えると,わが国はかなり遅れていたことになる。
[4]臨時軍用気球研究会 政府は諸外国の航空界の情勢を認め,1909年(明治42)7月,臨時軍用気球研究会を設けた。名称は気球だが,内容は航空全般にわたる研究推進機関である。陸海軍と文部省の協力により,大学・気象台・民間の学識者をも含め,日本の衆知を集めて欧米の航空先進国に学ぼうというものであった。現代でいえば,アメリカのNASAが宇宙開発をすすめたやり方と類似しており,航空研究は急速にすすんだ。会長は陸軍中将長岡外史,筆頭委員は東京帝国大学(当時)教授田中舘愛橘理博,次席委員は同教授井口在屋工博・中央気象台技師中村精男理博で,委員には徳永熊雄・日野熊蔵(後述)・奈良原三次(サンジ)(後述)・徳川好敏(後述)の名もみえる。研究会の事業としては次のものがあげられる。1.飛行場の選定−埼玉県所沢市の北側にある芋畑23万坪を7万6,500円(坪23銭)で購入し,滑走路・格納庫などの施設をつくる(日本最初)。2.高層気象の研究−観測凧を高空へ揚げるとともに,各種気象観測器械をそろえる(日本最初)。3.エンジンの研究−ガソリンと石油エンジン,燃料の研究を始める。4.飛行機の試作−日野熊蔵が,すでに1909年から独自のエンジン8馬力つきの日野式単葉機を製作中なので,これを支援する(翌年2月に完成したが飛行は不成功だった)。また奈良原三次も,1910年から独自の奈良原式1号複葉機の製作にとりかかったので,これを支援する(同年10月に完成したが飛行不成功だった)。5.欧州航空事情の研修−次の3委員を欧州へ派遣した。田中館は気球・飛行機・飛行場施設の研究。日野・徳川は,飛行機の購入と操縦技術の習得(1910年4月〜同11月)
[5]最初の動力飛行 日野熊蔵(1878〜1946)は,ドイツからグラーデ単葉機(24馬力,翼幅10.5m)を買って帰り,1910年(明治43)12月14日に,東京の代々木練兵場で非公式の初飛行に成功した。つづいて15,16,19日と連続して飛行した。また徳川好敏大尉(1884〜1963)は,フランスからアンリ=ファルマン複葉機を買って帰り,同年12月19日に初飛行した。ところが公式の飛行は12月19日とされ,この日の両大尉の飛行記録をもって,日本における初の動力飛行ということになっている。記録は,徳川機:最高高度70m,飛行距離約3km,飛行時間4分,日野機:それぞれ45m,約1km,1分20秒であった(ライト兄弟より7年遅かった)。奈良原三次男爵(1877〜1944)は,自作の奈良原式2号複葉機で,1911年5月,ようやく飛行に成功した。つづいて翌年3月に完成した奈良原式4号「鳳号」複葉機は,日本各地で巡業飛行のできるまでに成長した。これが国産民間機の最初とされている。
【第一次世界大戦の前後−誕生から実用まで】ライト兄弟の初飛行(1903)から第一次世界大戦勃発(1914)までの約10年間は,飛行機にとってはまだ暗中模素の時期で定まった形態もなかった。各設計者がそれぞれ独自の構想で試作を重ねていたのである。エンジンは自動車や船用からの改造で,25馬力から50馬力ほどだった。プロペラは機体前部につけたトラクター(前引き)式と,座席後部につけたプッシャー(後押し)式があった。主翼は単葉・複葉・三葉とさまざまで,尾翼にいたっては,水平翼(昇降舵)を機体前部に,垂直翼(方向舵)を機体後部につけた機体があるかと思えば,またその逆の配置にした機体もあった。1909年,イギリスのデイリー=メール新聞社が,英仏海峡を最初に横断した飛行家に賞金1万ポンドを提供すると発表した。これに応じたフランスの3飛行家のなかで,ブレリオ(1872〜1936)が,7月25日,自作の第11号単葉機(25馬力)を飛ばし,高度350m,時間37分で横断に成功した。その翌月,すなわち1909年8月にはフランスのランで,世界最初の第1回飛行競技大会が開かれた。当時の代表的飛行機が38機参加し,23機が計120回の飛行をするという盛況であった。アメリカ,グレン=カーチス複葉機は時速77kmの速度記録,フランス,アンリ=L・ファルマン複葉機は180kmを3時間5分の距離記録,イギリス,アントワネット単葉機は1,550mの高度記録をたてた。こうした経緯により,当時の航空熱と飛行機の水準を測ることができる。第一次世界大戦(1914年7月〜1918年11月)には,気球・飛行船・飛行機が使われ,それぞれの実戦価値を求める試験場となったのである。この結果,飛行機の有効性が認められた。また,飛行機のなかに用途に応じた専用機種(偵察機・爆撃機・駆逐機・戦闘機)が,要求仕様に応じた設計でその特性を表した。構造は,木製骨組みに羽布張りから鋼管熔接骨組みへ徐々に変わっていく。またエンジンが発達して機体の性能を向上させていった。飛行機用の50馬力から300馬力級の空冷型・水冷型が,フランス・イギリス・アメリカ・ドイツで量産されるようになった。第一次世界大戦が終わると,大量の余剰軍用機が民間へ放出された。これらは,自家用機や貨客輸送機として航空時代を少しずつ築いていった。旅客定期輸送の元祖は,大戦前の1914年1月1日から,アメリカのフロリダ州タンパからセントピータースバーグまでの30kmを運航したベノイスト14型単発飛行艇(乗客1席,乗員1席)である。しかし4カ月で経営困難となり中止された。
最初の本格的な旅客輸送は,敗戦から立ちあがったドイツ航空会社DLRによって始められている。1919年2月,ベルリン−ワイマール間190kmの路線で,2機のAEG単発複葉旅客機(乗客2席,乗員1席)が就航したのである。1920年ごろからは大型旅客機として,フランスのファルマン=ゴリアート(翼幅26.5m,総重量13t,260馬力×2基)と,イギリスのハンドレページW8B(22.9m,6t,360馬力×2基)が就航した。どちらも木製の複葉機だが,その客室が鉄道の客車なみの設計で12席もあることが,当時のジャンボ機として評判になった。一方,1919年に完成したドイツのユンカースF-13単発旅客機(280馬力,4客席)は,世界最初の全金属旅客機として好評を博した。これは合計350機以上生産され,1935年ごろまで使われた。木材より強度の高いアルミ合金を使って構造重量を減らし,しかも耐久性・耐天候性でも金属のほうが優れていることから,しだいに金属化への傾向が強まっていった。
【ヘリコプター−竹とんぼと違う機構】ヘリコプター研究の歴史は飛行機より古いが,実用化されたのは飛行機より40年ほど遅れ,今から約40年前のことである。竹とんぼは古くから知られており,レオナルド=ダ=ヴィンチの空中ネジ(前出)の例にもあるように,昔の人はこれで上昇・下降は簡単にできると思っていた。そこで数千年の昔から,多くの研究者が竹とんぼ式航空機と取り組んできたが成功しなかった。実は竹とんぼや空中ネジと,現代のヘリコプターの飛行原理とは,まったく異なるものである。それにもかかわらず,ダ=ヴィンチをヘリコプターの元祖であるとする誤解が,今でも存在するのは科学的とはいえない。回転する翼には,それと反対方向へ機体を回そうとするトルク(慣性力)が生ずる。このトルクを解消する機構については,19世紀になるまでわからなかったのである。スペインの技術者シェルバ(1886〜1936)はヘリコプターの研究中に,回転翼の垂直軸を前へ傾けると,回転翼が動力なしに自転するという現象を発見した。また回転翼とハブ(中心部)とのあいだにヒンジ(関節)を取りつけ,回転翼がビンジを軸にして柔軟に動くような機構を考えた。新しい設計の自転翼機C.4型オートジャイロは,1923年1月に初飛行した。オートジャイロは狭い場所からも離着陸できるので,ヘリコプターが実用になるまでの20年間にわたって,さまざまな用途に使われた。一方ヘリコプターは多くの研究者が取り組んでいたが,継続してコントロールのきく飛行をできる域には達していなかった。垂直上昇・下降と前進のできる最初の実用ヘリコプターは,ドイツのフォッケ=アハゲリスFa61型で,1936年6月に初飛行した。これは互いに反対方向へ回る2組の回転翼と,前進用のプロペラをもっていた。しかし,回転翼だけで前進・後退できる機構の発見は,まだ先のことになる。これを解決して現代のヘリコプターの技術的基盤をつくったのは,アメリカのシコルスキー(1889〜1972)が1940年に開発したV-300型である。彼は,はじめロシアで大型飛行機を設計していたが,1914年にアメリカヘ亡命し,大型飛行艇の開発で業績を上げた。V-300型はトルク制御用の尾部回転翼と,回転翼が回転中にピッチ(空気に対する迎え角)を変えられる機構を備えていた。こうして初めてヘリコプターは,前進・横進・後退・空中停留ができるようになったのである。1941年5月,シコルスキーは自分で操縦して1時間32分の滞空記録をつくった。その改良型R-4型は,第二次世界大戦で初めて救難や哨戒に使われた。
【より速く,より遠くへ−記録を競う】1920年代から1930年代にかけて飛行機はたくましく成長した。その牽引力になったのは,各国の篤志家や新聞社で,航空界の発展を願って巨額の懸賞金が提供された。飛行競技大会はもちろん,大陸間・都市間連絡の新空路開拓飛行に対し多様な賞金がかけられ,パイロットやメーカーの競争心をかきたてたのである。1920年代後半からは,飛行機の進展のテンポが加速された。航空界はこれまではフランスを中心にイギリス・ドイツ・イタリアの計4カ国が世界をリードしていたが,このころからアメリカが台頭し,1930年代後半では,アメリカ・イギリス・ドイツ3国が肩を並べてトップを争う情勢となった。スピードを争うレースには,次のような懸賞競技があった(開催年とその年の優勝機のスピード(時速)記録)。[1]シュナイダー=カップ=レース(1913:72.6km〜1931:547.2km),[2]ピュリッツアー=トロフィー=レース(1920:251.9km〜1925:400km),[3]トンプスン=トロフィー=レース(1930:324.9km〜1939:454.6km),[4]ベンディックス=トロフィー=レース(1931:258.9km〜1939:453.9km)。これらのレースにより,高速翼型・高揚力装置・軽量強勤構造・引込脚・強力エンジンが生まれた。この当時のレース機は,陸海軍の戦闘機よりも速く,軍用機設計への刺激剤となった。また,この年代に新空路開拓の先駆けをした飛行には,次のような記録がある。[1]北大西洋無着陸初横断(東航),1919年6月14〜15日,イギリスのアルコック・ブラウン(2名),ビッカース=ビミイ双発複葉機。ニューファウンドランド−アイルランド間3,040kmを16時間17分。[2]英豪連絡初飛行(東航),1919年11月12日〜12月10日,オーストラリアのスミス兄弟ほか2名,ビッカース=ビミイ双発複葉機。ロンドン−ポートダーウィン間1万6,528kmを27日20時間。[3]伊日連絡初飛行(最初の訪日外国機),イタリアのフェラリンほか3名,アンサルドSVA 9単発複葉機2機。ローマ−東京間1万6,700kmを108日。[4]世界1周初飛行(西航),1924年3月17日〜9月18日,アメリカのスミス中尉ほか7名,ダグラス単発複葉機2機。シアトル−日本−インド−ヨーロッパ−カナダ−シアトル間4万6,560kmを176日。[5]南太平洋無着陸初横断(西航),1927年10月14〜15日,フランスのコスト・ルブリ(2名),ブレゲー19単発複葉機。セネガル−ブラジル間3,460kmを19時間5分。[6]北大西洋単独無着陸初横断,1927年5月20〜21日,アメリカのリンドバーグ,ニューヨーク−パリ間5,809kmを33時間29分。[7]北極海横断初飛行,1928年4月21〜22日,オーストラリアのウィルキンス,イェルソン2名,ロッキード単発単葉機。アラスカ−ノルウェー間3,000km,20時間30分。[8]南太平洋横断初飛行(西航),1928年5月31日〜6月9日,オーストラリアのキングスフォードスミスほか3名,フォッカーF7b3発単葉機。アメリカのオークランド−オーストラリアのブリスベーン間1万2,000kmを実飛行時間83時間15分。[9]北太平洋無着陸横断(東航),1931年10月4〜5日,アメリカのハーンドン・パングボーン(2名),ベランカ単発単葉機。青森県淋代(さびしろ)−アメリカのウェナッチ間7,335kmを41時間13分。これらの長距離飛行では,エンジンの性能と耐久性の向上が先決要件であった。また航続性能を増やすための主翼・機体の設計,構造・材料・燃料の研究,通信・航法用機器,プロペラ機構などの発達が強く求められた。1930年代に入ると上記の進歩はさらに加速された。現代にみられる飛行機の基本構成は,ほとんどこの時期に完成したので“第一次飛行機近代化革命”ともいわれている。第二次世界大戦(1939年9月〜1945年9月)が始まってみると,軍用機の威力の増大によって,陸上戦でも海上戦でも航空優勢(制空権)下の戦いとなった。航空総合力の優劣は,戦争の勝敗に重要な影響を及ぼすことが認識され,戦争当事国は航空機の性能向上と大量生産,航空従事者の養成に力を注いだのである。また航空規格の統一,整備・生産能力の改善にもつとめた。しかし航空史的にみると,戦争中には画期的な新規発明は生まれず,上記近代化革命の延長線上にあったとみてよい。ただ一つの例外は,ジェット=エンジンの開発でこれは後に述べる。そして,戦時中に成長した航空交通管制・航法用機器と技術は,戦後の民間航空輸送に引き継がれ,その黄金時代を迎える基盤となった。大西洋を往き来する旅客数が,船旅より空の旅のほうが多くなったのは1954年以降のことである。
【ジェット=エンジン−第2次飛行機近代化革命】飛行機の動力には,ライト兄弟以来ピストン=エンジンとプロペラの組み合わせが使われてきた。ところが飛行機の時速が700kmを超えると,プロペラの羽根の先端では対気相対速度が音速に近づき,空気の圧縮性の影響を受けるようになる。こうなるとプロペラの効率がぐっと下がってしまうので,機体の速度限界は750〜800km/時と予想された。そこでプロペラに代わるものとして,噴流(ジェット)推進が考えられるようになったのである。ジェット推進のための高温高圧ガスをつくるには,いくとおりかの方法があり,1930年代の初めから,イギリス・ドイツ・イタリアの3国で,それぞれ秘密に研究実験がすすめられた。イギリス・ドイツのものはタービンで圧縮機を回し,圧縮空気に燃料を噴射して爆発したガスを後方へ噴き出し,その反作用で推進力を得ようとするターボジェット=エンジンで作動が単純で能率が高い。イタリアのものは,ピストン=エンジンでファン(風車)を回すもの。圧縮空気に燃料を噴射し,あとはターボジェット=エンジンと同じ作動方式をとるエンジン=ファン=ジェットであった。新しい推進方式の航空機をまとめると,次のようになる。[1]1939年8月27日,ドイツのハインケルHe178(ターボジェット)実験機が初飛行(世界最初のジェット機)。[2]1940年8月28日,イタリアのカプロニ=カンピーニN−1(エンジン=ファン=ジェット)実験機が初飛行。しかし,この方式はそれ以上進展しなかった。[3]1941年4月2日,ドイツのハインケルHe280戦闘機(ターボジェット双発)が初飛行(世界第2のジェット機)。[4]1941年5月15日,イギリスのグロスターE.28/39(ターボジェット)実験機が初飛行(世界第3のジェット機)。[5]1941年8月13日,ドイツのメッサーシュミットMe163戦闘機(ロケット=エンジン)が初飛行(世界最初の実用ロケット機)。同機は戦争未期の1944年夏から戦線に登場した。[6]1942年7月18日,ドイツのメッサーシュミットMe262戦闘機(ターボジェット=エンジン)が初飛行。世界最初の実用ジェット戦闘機として,1944年11月から戦線に登場した。[7]1943年3月5日,イギリスのグロスター=ミーティア戦闘機(ターボジェット=エンジン)が初飛行。世界第2の実用ジェット戦闘機として,1944年7月からイギリス本土防空に出動した。これらはまだ少数だったので,大戦の戦局に影響を与えなかったが,戦後のジェット機時代の先駆者として名を残した。さてジェット推進利用のもう一つの形式に,ターボプロップとターボシャフトがある。ガスタービンで高温度高圧ガスをつくり,そのガスでタービンを回すと同時に,飛行機のプロペラも回すのが,ターボプロップ=エンジンである。同様に,この回転力でヘリコプターのローター=シャフトを回そうというのがターボシャフト=エンジンである。ターボプロップとターボシャフトは,ジェットほど強力ではないが,燃料消費量が格段に少ない利点があり,近・中距離用の輸送機やヘリコプターにむいている。このエンジンの研究はイギリスが先頭を切り,1948年7月には,ビッカース=バイカウント旅客機(ターボプロップ4発,60客席)が初飛行した(世界最初の実用ターボプロップ旅客機)。同機は,1950年から路線に就航しいまだに使われている。またジェット旅客機では,イギリスのデハビランド=コメット1型旅客機(ターボジェット4発,40客席)が,1949年7月に初飛行した(世界初の実用ターボジェット旅客機)。同機は1952年5月から就航したが,空中爆発事故を2回繰り返したため,1954年に運航を停止した。このようにしてジェット機時代の幕は明けられた。ジェット=エンジンの出現によって航空界は大きく変化したので,これを“第2次飛行機近代化革命”としている。
【高速・大量輪送−ジェット旅客機】1950年代に,ターボジェット=エンジン(略称ジェット)が実用化された当初は,燃料消費量が多いので,速度は速いが航続距離は短かった。そこで装備する機種は,戦闘機や爆撃機のように,経済性よりも性能を重視するものに限られていた。しかしそののち改良がすすみ,ジェットは経済性や整備性の上でもピストン=エンジンをしのぐようになった。輸送機・爆撃機はもちろん,大型自家用機までジェット化へすすむ傾向がみられる。ピストン=エンジン機は性能向上に限界があるが,ジェット機は,さらに高速・長距離・大型化の可能性をもっている。1950年代に登場した大型ジェット旅客機は,これまでの国際間長距離空輸を高速化し,地球の概念を小さくしてしまった。その先鋒は,次の5機種であった。[1]ソ連:ツポレフTu−104旅客機(70席),1956年5月からシベリア横断路線に就航。[2]イギリス:改良後のコメット4型旅客機(60〜81席),1958年10月から大西洋横断路線に就航。[3]アメリカ:ボーイング707旅客機(121席),1958年10月から大西洋横断路線に就航。[4]フランス:シュド=カラベル旅客機(94席),1959年4月から欧州・中近東路線に就航。[5]アメリカ:ダグラスDC−8旅客機(132席),1959年9月から米国内線に就航。[6]アメリカ:コンベア880旅客機(87席),1960年5月から米国内線に就航。これらのジェット旅客機は,1960年代に入ると急ピッチでシェアをひろげた。さらに高速化が追求されると,超音速旅客機が登場する。イギリス・フランス共同開発のコンコルドは,巡航速度マッハ2.2で乗客128人を乗せ,6,800kmの距離を飛ぶ。1976年1月から大西洋横断線に就航した。ソ連のツポレフTu−144は,巡航速度マッハ2.2で乗客140人を乗せ3,500kmを飛ぶ。1977年11月からモスクワ−アルマアタ線に就航した。しかしコンコルドは,16機生産された機を8機ずつイギリス・フランス航空会社で運航したが,経済性が悪く,乗客利用率はよいのに赤字がつづき,今後いつまで運航できるか危ぶまれている。Tu−144のほうは,燃料消費の過大と機体の振動の理由で,1978年6月に旅客運航を中止した。超音速旅客機は,将来さらに大型の経済的な機種が出現するだろうが,その鍵を握るのはエンジンとみられている。1960年代後半からターボファン=エンジンが実用となった。これはターボジェットの前側に大型ファンを増設した形態。燃料消費量と騒音の低下に有効だが,エンジンの直径が大きくなるので,大型の輸送機に使われている。大量輸送の要求に応じて出現したボーイング747旅客機(通称ジャンボジェット)は,世界最大の旅客機である。1970年1月から就航したが,同機の発着空港は,この機のために滑走路や駐機施設を改修しなければならなかった。ボーイング747旅客機は全長70.5m,全幅59.6m,全高19.3m,離陸重量379t,最大運用速度マッハ0.92,航続距離1万500〜1万3,500km,乗客350〜500名,1機価格約220億円である。
(2/3:続く)
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