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航空発達史 こうくうはったつし

【航空機とは−飛ぶということ】“航空機”の定義は〈人が乗って大気中を飛行する機器〉である。国によって定義が少し違い,人が乗らなくても大気中を飛ぶ機器を航空機とみなすところもある。わが国の航空法では,人の乗らない凧・係留気球・模型飛行機は航空機として扱わない。航空機と飛行機とを混用する者が多いが,航空の世界では,“航空機”は〈気球・飛行船・飛行機・へリコプター〉の総称,“飛行機”は〈エンジンを備え,固定翼に生ずる揚力によって飛行する乗り物〉の単称であるとして,はっきり区別している。また各国とも,大気圏外を飛ぶ宇宙飛行体は,航空機と区別している。

 航空機を飛行の原理によって分類すると,表1のように大別される。

 また用途によって分類すると,表2のように大別される。

 人類がどのようにして大空を高く速く自在に飛べるようになったか,歴史をさかのぼると,エジプト・ギリシア・ペルシアなどの遺跡から出土したもののなかに,人間が翼のようなものをつけている絵や彫刻がある。こんにちまでの数千年のあいだに,さまざまな人物が多くの場所で“飛んだ”という神話・伝説がたくさん残っている。彼らは本当に飛行した可能性があるのだろうか。“飛行”の定義は,〈その離陸から,上昇・旋回・下降,そして着陸までのあいだ,乗った人が意志の通りにコントロールできる状態であること〉となっている。この解釈からすれば,18世紀以前の神話・伝説上の鳥人は,すべてジャンプか滑空降下の類いにすぎず,完全な飛行に成功したものはない,というのが現代の航空界の定説になっている。人類の空中飛行術は,鳥をまねることから始まった。しかし,その鳥の飛行のメカニズムが,現代の知見に近いまでに正しく解明されたのは,19世紀に入ってからのことである。それまでの数千年に及ぶ航空機研究熱のあとを資料によってみると,多くの研究家は,それぞれ勝手な思いつきで,縦にも横にも連続性がなく,何世紀にもわたって試行錯誤を繰り返している。これは,農業や工芸の研究のように,数千年のあいだ苦心を重ねて,経験や技術を積み上げていった,というものではない。18世紀にいたって,モンゴルフィエ兄弟(後述)の,煙の上昇力を利用しようという優れた着眼があって,人類は突如として大空へ昇る足がかりを得たのである。しかし,彼らの試みは先人の研究業績とは関連がなく,鳥の飛行とも異質のものであった。

【鳥をまねて−不毛の数千年】前項のように,鳥というあまりにも見事なお手本が身近かにあったため,人類はひたすら鳥の飛行をまねることにこだわった。こうして数千年を空しく過ごしてしまった。

 イタリアの芸術家・科学者として知られたレオナルド=ダ=ヴィンチ(1452〜1519)は,1505年に「鳥の飛行について」という論文で,鳥が飛ぶときのはばたきや滑空について,かなり綿密な工学的考察を述べている。しかし彼の描いた羽ばたき機や空中ネジ(螺旋板)のスケッチは,思いつきの範囲を出ず,たとえ研究をつづけても飛行の成功は覚つかなかったであろう。結局,彼の考えは航空機の研究にはなんの寄与もせず,彼をもって“航空の始祖”とする説は,こんにちの航空学界では認められていない。同じイタリアの数学者ボレッリ(1608〜79)は,鳥の飛行を詳しく解析して論文を発表(1680)した。そのなかで鳥と人とを比べ,筋力と体重の割合からみて,人間は鳥のまねをして羽根をつけても飛ぶことは不可能であると断定し,ダ=ヴィンチをはじめとする当時の研究者たちの空想は否定された。鳥には,翼を動かすはばたき飛行と,翼を動かさない滑空飛行とがある。人類の多くは,前者をまねてはばたき装置を考えたりしたが,機構が複雑で完全なものはなかった。はばたき機は現代でも成功例はないほど難しいのである。だから過去において,これに手をつけた研究者は不運であった。これにひきかえ,大古において固定翼の滑空をめざした人がいたとすれば,あるいは成功した例もあったかも知れない。たとえば巨大な凧をつくり,人を乗せることができ,安定もよければ,索を切り離して滑空降下することは可能だったろう。ただしこの場合や,後述の係留気球の場合は“飛行した”といわず,“空中に浮揚した”という。

 イギリスの学者ケイレイ卿(1773〜1857)は,航空工学について実験の裏づけのある研究をすすめ,航空界に貢献するところが大きかったので“イギリス航空界の父”として尊敬されている。彼の打ち立てた理論は〈鳥ははばたく翼によって,重量を支える浮揚力を得ると同時に,抵抗に打ち勝つ推進力を得ている。一つの翼で二つの異なった働きをしているが,人のつくる機械では,浮揚力を得る手段と,推進力を得る手段とは分離させなければならない〉というものであった。これは今でいうグライダーとエンジンの組み合わせ(すなわち飛行機)の概念である。そのほかに,空気抵抗を減らさなければならないこと,翼の断面を曲面とすること,主翼に上反角をつけて横安定をよくすること,などこんにちの航空工学にみる基礎理論の大部分を解明した。この考えによる模型グライダー(1804)は,現在のものと同じ姿をしており,簡潔で合理的であった。これまでの航空機研究者の暗中模索は,ケイレイの理論によって終止符を打ったとみなされ,ここに飛行機は初めて,実現の見通しを得たのである。

熱気球と水素気球−人類,空に昇る】しかし人類初の空中飛揚は,ケイレイの理論にもとづく飛行機ではなくて,18世紀の末期に,熱空気気球と水素ガス気球の先陣争いの形で,突如として幕が開けられた。まず,フランスのモンゴルフィエ兄弟(兄1740〜1810・弟1745〜99)は,煙や蒸気が空高く立ち昇るのにヒントを得て,この煙を大きな風袋に入れて乗れば大空へいけると信じた。今でいう熱気球であって,袋の中の熱い空気と,袋の外の常温の空気との密度差による浮力の利用である。しかし兄弟は煙に浮力があるものと誤解し,湿ったワラやゴミを燃やして煙を集める努力をした。紙で直径11mの風袋をつくり,1783年6月に公開飛揚(無人)実験に成功した。記録では高度1,800mまで上がり,約10分間滞空したのち2km離れたところに着地したのである。一方,1766年に空気より軽い気体,水素が発見された。水素ガスの浮力を気球に利用しようと着想したフランスの物理学者シャルル教授(1746〜1823)は,ロベール兄弟の協力を得て水素気球の開発に乗り出した。この気球は,布にゴムを塗った直径3.6mの風袋で,1tの鉄屑に4分の1tの稀硫酸を注いで発生した水素を詰めたものである。1783年8月の公開飛揚(無人)実験で45分間滞空ののち24km離れたところに着地した。熱気球に2カ月遅れたが,記録はよかった。そののち,熱気球も水素気球も何回かの公開浮揚実験を繰り返したのち,どちらが先に有人昇空を果たすかが,フランス中の話題となった。モンゴルフィエ兄弟の製作した第4号熱気球は,直径15m,容積2,200立方m,重量785kGの巨大な風船で,1783年11月21日に,ついに人類初の熱気球による自由飛行に成功した。このとき志願して乗った物理学者ピラトール=ド=ロジエ(1756〜85)とダルランド侯爵(1742〜1809)の二人を乗せた熱気球は,パリ郊外から飛び立った。高度1,000mに達し,約25分後に12kmほど離れた地点に降りた。10日後の12月1日,シャルルの水素気球も有人飛行に成功した。シャルルとロベール(弟)の乗った直径8.6m,容積325.5立方mの気球は,パリから約43kmの距離を1時間45分も飛び続けて着地した。ここでシャルルはロベールを降ろしたのち,単独飛揚を試み,1,750mまで上昇して35分間で5km飛んだ。熱気球は水素気球に比べると,性能や実用性で劣っていた。しかし,わずか10日の差でモンゴルフィエ兄弟は,人類の夢をかなえた航空機開発者として,航空史に不滅の名を残すことになった。1785年1月,フランスの技術者ブランシャール(1753〜1809)とアメリカの医師ジェフリーズ(1744〜1819)の二人は,気球による最初の英仏海峡横断に成功し,ルイ16世から1万2,000ルーブルの賞金を授けられるほどの人気を呼んだ。この気球は郵便物も乗せており,これが史上初の国際航空便とされている。つづいてピラトール=ド=ロジエも,フランスの海岸から海峡逆横断を企てた。水素風袋の下に熱気球を組み合わせた新気球をつくり,1785年6月に離昇したが,まもなく引火爆発して墜落した。ピラトールは,人類最初の空の成功者ではあったが,19カ月後には最初の空の犠牲者となってしまったのである。また気球史には,ティサンディエ兄弟(兄1839〜1906・弟1843〜99)も名をとどめている。彼らは高層大気観測の気球をつくり,1875年に弟が二人の科学者と乗って,酸素吸入なしで8,500mまで上昇したのち,墜落した。2名は死亡したが弟は生命をとりとめた。当時は上空の空気がどうなっているのか知らなかったのである(この兄弟は,その後1883年に初めて電気モーターつきの飛行船を完成している)。こうして気球は,ただ一つの空飛ぶ道具として発達し,飛行船や飛行機が実用となる1900年代まで,約100年にわたって人気を独占した。欧米では気球による空中観光・郵便連絡も流行したほどである。

飛行船−80年間の空の王者】気球を実際に使いはじめると,これは風まかせだから行きたいところにも行けない始末であったため,風に逆らっても飛行できる気球への要求が高まった。しかし,これが実際に操縦できるまでに,約70年の歳月を費やしている。19世紀に入って産業革命のおかげで,蒸気エンジン・電気モーターの発明があり,ガソリンエンジンも加わった。これらによって,気球に推進装置が与えられて飛行船が生まれた。これより少し遅れて,グライダーにも推進装置が与えられて飛行機が生まれることになる。世界で初めてエンジンとプロペラを備えた飛行船ができたのは,1852年9月であった。フランスのジファール(1825〜82)がつくった軟式飛行船は,長さ44m,直径12m,容積2,500立方mのフットボール形をしたガス袋の下部の桁に,乗員席1個,3馬力蒸気エンジン,それに直径3.4mのプロペラがついていた。時速10kmと人の歩くより少し速い程度で,気球同様に風に流された。さらに50年の歳月のあいだに少しずつ進歩を遂げた。ルボーディ兄弟(兄1858〜1937・弟?〜?)が1903年につくった半硬式飛行船で,やっと実用の域に達した。これは長さ58m,直径9.8m,容積2,300立方mのガス袋に,40馬力のガソリンエンジンを装備し,時速42kmだった。

 1903年は,ライト兄弟(後述)が初の飛行機を飛ばした年で,飛行機の将来性はまだ不明だったが,ガソリンエンジンつき飛行船の前途は明るくみえた。この時期に現れたのが,ドイツのツェッペリン伯爵(1838〜1917)で,その飛行船 LZ 1号が進空したのは1900年7月,このとき彼は62歳であった。彼が設計したのは硬式飛行船で,船体を金属骨組みとしたため,大型化→搭載量増加が可能になった。ツェッペリン飛行船は,1909年に設立された航空輸送会社によって,旅客の定期輸送に使われるまでになった。この当時の飛行機では二人乗りがやっとだが,飛行船は30〜40人乗りで,断然優位に立っていた。1910〜14年の輸送実績では,3,176時間飛び,3万4,028名を運んでいる。ドイツは第一次世界大戦(1914〜18)中に,多数の飛行船をイギリスの爆撃や偵察に使った。大戦後の1919年7月2日に,イギリスの硬式飛行船 R34号は,スコット船長(1888〜1930)以下30名を乗せてスコットランドを出発,6日にニューヨークに到着した。飛行船による初の大西洋無着陸横断飛行を成就し,帰還にも成功したのである(飛行機は6月に成功。後述)。飛行船が世界の人々を驚かせた事件が二つある。一つは,LZ127「ツェッペリン伯爵号」が,1929年8月に3地点着陸で世界1周を完成したこと。アメリカ(レークハースト)−ドイツ(フリードリッヒスハーフェン)−日本(霞が浦)−アメリカ(ロサンゼルス)−アメリカ(レークハースト)の航程3万3,632km,実飛行時間273時間27分であった。船体の長さ236.5m,直径33.7m,容積l0万5,000立方m,総重量111t,530馬力エンジン5基,乗客20名(豪華な個室つき),内装は客船と同じように食堂・サロン・バーを備えていた。巡航時速120km,航続距離1万kmで,空の王者と讃えられたのももっともなことである。次の事件は,LZ129「ヒンデンブルク号」の爆発事故である。同船は船体の長さ245m,直径41.2m,容積19万立方m,1,200馬力エンジン4基,乗客50〜72名,乗員40〜55名で巡航時速125km,航続距離1万6,000km。1936年3月に完成以来すでに1,300名の乗客を運んでいた。1937年5月6日に大西洋横断を終えてレークハーストに着陸しようとしたとき,突然炎上して乗客乗員合計97名のうち35名と地上の1名が死亡した。この事故が契機となって大型飛行船時代は終わりを告げた。ツェッペリンは,LZ1号から数えて119隻を建造している。飛行船は図体が大きくて保守が大変なこと,巡航速度が遅いこと,水素ガスが引火しやすいことが欠点であった。ドイツは引火しないヘリウムガスの使用を望んでいたが,当時唯一の生産国アメリカは国防上の理由から輸出しなかった。ちょうど1930年代から,飛行機は巡航速度・保守性・搭載能力の点で急速な進歩を遂げつつあった。もし飛行船の生産がつづいても,飛行機に主座を奪われるのは,時間の問題だったであろう。

【グライダー−9世紀末に道を発見】ここで話を飛行船からグライダーに戻したい。1800年ごろにケイレイ卿が,航空工学の基礎理論で道を開いたはずなのに十分に活用されなかった。そのあと,グライダーが成長して飛行機へ移行するまでに100年かかっている。グライダーの滑空飛行実験を大成した先駆者は,ドイツのリリエンタール兄弟(兄1848〜96・弟1849〜1933)である。兄は14歳のときから弟を相棒として航空研究を始め,42歳(1889)のとき,その成果をまとめて『飛行術の基礎としての鳥の飛行』を出版した。これは後世のため役立ったので,この書だけでも兄弟の功績は大きいと評価されている。1890年からグライダーの飛行実験を系統だてて行った。それは翼幅7m,翼面積10〜14平方m,重さ18〜20kGの範囲で,単葉5種,複葉3種をつくった。こんにちでいうハンググライダー形式だが,尾翼がある。翼の骨組みは竹と籐で,表面に木綿布が張ってあった。翼の中間の粋にぶら下がり,体重を移動して機のバランスをとるようになっていた。兄は6年間に2,000回以上の滑空実験で,翼の揚力・風圧中心・機の安定性などに貴重なデータを残した。兄弟は,固定翼グライダーの実験と並行して,はばたき翼グライダーの滑空実験も始めていた。その動力は,炭酸ガスボンベを積んでガス圧によって翼を動かそうというものであった。無人の模型では1871年に成功していたが,有人グライダーでは,1896年に数回,滑空中に作動させるところまでいっている。この年に,兄は固定翼グライダーの滑空実験中に墜落して死んだ。しかし,彼はグライダーで大空を飛べることを最初に実証し,そしてその犠牲となったのである。弟は,その後もはばたき機に取り組んでいたが,成功はしなかった。19世紀末になると,気球・飛行船・はばたき機・人力機・グライダー・飛行機・ヘリコプターの研究者たちが欧米各国に混在して,それぞれの機種の完成に苦心していた。このなかで,ケイレイ・リリエンタールの理論を正しく継承したグライダーと飛行機の進歩は著しく,大成の日の近いことを思わせた。イギリスのピルチャー(1866〜99)は,リリエンタールから技術を習い,さらにすすんで動力飛行へすすむため4馬力のエンジンを製作していたが,グライダーが空中分解して死亡した。アメリカの土木技師シャニュート(1832〜1910)は,1896年から翌年にかけて,各種のグライダーをつくり,700回の滑空実験は無事故ですましたものの,主翼を前後に動かせて操縦する理論では成功しなかった。しかし彼は『飛行機械の進歩』(1894)の著書と実地活動で,北米大陸に航空技術の種子をまいた功績が評価されている。

 アメリカのライト兄弟(兄1867〜1912・弟1871〜1948)は,1880年代からリリエンタール・ラングレイ・シャニュートらの航空科学書を学び,また手紙や直接の助言を得ていた。兄弟は,グライダーの模型と実験の両面から組織的な研究をすすめた。1900年から3年間にわたる3機の複葉グライダー実験で,操縦性と安定性について成果をあげている。1902年の3号機は,ライト式飛行機の原型というべきもので,翼幅11m,翼面積28平方m,全重量120kG,滑空回数約1,000回,距離は100mを超えた。あとは,エンジンさえつければ飛行機になれるということろまでたどりついたのである。フランスのボアザン兄弟(兄1880〜1973・弟1882〜1912)は,1896年ごろから箱型凧の研究を始めた。複葉の箱型翼を前後に串型に並べたグライダーは,飛行機凧に似ていたが,尾翼を主翼の前に置いた点に特徴がみられた。この試作はライト兄弟より1年先行していた。しかし適当な飛行試験場に恵まれず,フロート(浮舟)をつけた水上グライダーとして実験したりしているうちに,ライト兄弟初飛行の報を聞いて放棄した。あとになって(1907年5月)これを飛ばせて成功していることや,その後の兄弟の活動実績をみると,もし試験場を早くみつけて研究がすすんでいたら,あるいは初の動力飛行の栄冠を勝ち得たかも知れないほど確実性があったといわれている。

【飛行機−20世紀初頭に結実】初期の航空工学研究者としては,アメリカのラングレイ(1834〜1906)もはずすわけにはいかない。彼は,すでに高名な物理学・天文学の教授であった。1886年ごろから航空機の研究にも手を染め,その成果をまとめた『空気力学における実験法』(1891)を出版している。このなかで,平面翼と曲面翼の空力特性を述べている。空気よりも重い物体でも大きな速度(推進力)を与えれば,空中に浮揚していることが可能であること,それに定量的な研究を行う方法を詳しく述べている(これはライト兄弟にもきわめて有益な参考書となった)。ラングレイは,1896年までに2個の蒸気エンジンつきの模型飛行機6種類の試験飛行に成功し,当時評判になった。1898年にアメリカ・スペイン戦争が始まったとき,アメリカ陸軍はラングレイに有人飛行機を完成するよう要請し,5万ドルの補助金を出した。彼は助手のマンリイとともに約5年がかりで機体と石油エンジンを自作した。機体は鋼管骨組みに羽布張りで,前翼と後翼が同じ大きさの串型翼機である。翼幅14.6m,翼面積96.6平方m,全重量330kG。エンジンは水冷5気筒52馬力で,2個のプロペラをまわす。当時の,どの競争相手よりも優れた機体と見受けられた。ところが,1903年の10月17日と12月8日の2回にわたって,マンリイの操縦で試験飛行したが,いずれも失敗に終わったのである。原因は河舟のカタパルトから発進したとき,舟のさえ鋼の支柱が機体に引っ掛かるという単純なミスのためだった。後世の検討では,ラングレイの機体自体に欠陥はなかったとされている。のちにこの機体を復元し,フロートをつけて水上から離水したところ,正常な飛行に成功している。しかし2回目の試験飛行失敗から10日後に,ライト兄弟機が最初の試験飛行を成功して栄冠をさらってしまった。ラングレイ機の実験状況は,新聞で大々的に報道されて,ライト兄弟も知っていた。しかしライト兄弟は,発明特許を取るつもりであったから秘密を守り,ごくわずかな人にしか知らせなかった。こうしてのちに飛行に成功しても新聞報道の扱いは小さかったために,多くの人は彼らの成功を信じなかったほどである。このころ(1900年前後)に,“世界最初の飛行機”をめざした研究者は,フランスとアメリカだけでも数人ずついた。彼らの共通の悩みは動力源と機体の操縦の問題であった。ラングレイは強力なエンジンを開発し,ライト兄弟は操縦をマスターしていた。兄弟は自動車用ガソリンエンジンを改良して,水冷直列4気筒12馬力,重量120kGのものをつくったのである。プロペラについては参考となる資料がなく,独自の考えでつくった。これを取りつけたライト式1号複葉機は,前方に昇降舵を突き出していた。主翼の両端後縁部は操縦索で撓(たわ)ませて,飛行中の横安定をとり旋回できるようにした。パイロットは主翼中央部に腹ばいになる。その後方にエンジンがあり,チェーンを介して直径2.6mの2個のプロペラを回す。機体は翼幅12.3m,全長6.4m,翼面積47.4平方m,総重量340kGとなった。1903年12月17日,ノースカロライナ州の大西洋海岸で兄弟は1日に4回の飛行を完了し,世界最初の動力飛行成功者の栄誉を勝ち取った。この日の最良記録は,260mを飛び滞空59秒間であった。ライト兄弟はこれに力を得て機体の改良につとめた。しかし,一方では,彼らの複葉機全体を新案特許と信じ,その申請をした。兄弟は考案の秘密を守るため,1908年まで公開飛行をすることを拒んでいる。そのうえ,ほとんど同時期に独立して考案された,ほかの形式の飛行機まで特許侵害として訴訟で争うことに晩年のエネルギーを費やした。こうしているうちに,他機はさらに進歩していったのである。ブラジルの富豪の息子サントス=ドゥモント(1873〜1932)はフランスに渡って多くの飛行船を設計し,自ら飛ばせて人気を集めていたが,その後,飛行機にも手を染め,14ビス号複葉機で,1906年9月13日に自ら操縦して7秒間飛んでいる。これが欧州で初めての動力飛行である。次いで11月には,滞空21.2秒で220m飛んだ。この時速換算41.29kmは,国際飛行連盟が初めて公認した世界速度記録である。このときのエンジンは,モーターボート用を改造した水冷V型8気筒50馬力だった。前項で述べたボアザン兄弟の飛行機は,1907年3月に6秒間,60mの安定した飛行に成功している。ライト兄弟より4年,サントス=ドゥモントより1年遅れたことになる。しかしボアザン機の安定性と飛行性能は,前記2機よりも優れていた。そこで,ドラグランジュ(1873〜1910)やファルマン兄弟(兄1874〜1958・弟1877〜1964)は,ボアザンに製造権を譲ってもらい,これを改良して多くの複葉機をつくり,世界各国に普及させた。ファルマン兄弟は,主翼に補助翼をつけることにより,安定性・操縦性が一段と優れた飛行機を開発した。複葉機の形態は,ライトからボアザンをへて,ファルマンによって完成した観がある。これらの開発は,いずれも3兄弟の均等な努力で推進された。航空開拓史には,ほかにも多くの兄弟が登場し,科学技術の進歩に貢献したのは注目すべき現象であった。

(1/3:続く)

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