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●紅巾の乱 こうきんのらん

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 中国史上,紅巾を旗幟とした集団による反体制・反社会の民衆運動の総称。狭義には,元末に白蓮教などの宗教結社集団によって惹起された反元民衆運動をいう。紅巾をしるしとした反乱軍は,すでに1120年代,すなわち南宋・北宋の交替期の河北・山東・安徽などにみることができる。ここでは,金の侵入に対する自衛,あるいは金・宋の交戦からの自衛などの民族主義的行動を企てた民衆武装集団の同志的結合の標幟として,紅巾が用いられている。1120年(宣和1)から数年にわたった宋江の乱を下敷きにつくられた『水滸伝』における梁山泊の英雄が紅巾を着けている姿はこのようなことの反映であろう。また,金末元初の紅襖の賊の紅色にも,同様の意識がみえるようである。1351年(至正11)に勃発した元末の諸反乱に紅巾を標号として掲げた集団は,韓山童・林児父子に繋がって江淮を中心に活躍したものと,ホウエイギョク※注1※・徐寿輝とその与党によって長江中流域を中心に活動したものとに二大別される。前者を白蓮教紅巾・江北紅巾,後者を弥勒教紅巾・江南紅巾などと呼んだが,両者の背景として存在する二つの宗教が必ずしもそのようにいえないことから,今日では,東系紅巾・西系紅巾と称することが多い。韓山童は祖父以来の白蓮会主であったが,1351年に元朝による黄河治水の失敗に乗じて童謡を流行させ,徴発された工事民夫のあいだに弥勒仏下生の現実性を植えつけ,劉福通らとともに紅巾を掲げて反乱を企てた。山童はまもなく捕殺されたが,一子林児は山中に潜伏した。福通らは潁州を占領して黄河治水の民夫を吸収し,河南・安徽の各地に勢力を張り,1355年(至正15)には潜伏中の林児を迎えて小明王として皇帝に擁し,毫州を都として宋国を建て,年号を龍鳳とした。こうして動きに呼応して河南に布王三,湖北に孟海馬,安徽に郭子興,江蘇・安徽に芝麻李などがたち,元朝勢力を南北に分断した。これらのすべてが白蓮教に連繋していたのではないが,いずれも反元の民族主義を帯有していることから,紅巾白蓮教の旗幟ではなく,民族主義的抵抗運動,ないしその亜流のそれであった,と理解すべきである。各集団のうちでも郭子興の麾耗座下にあった朱元璋の軍隊は,1356年(至正16)に集慶を陥れてのち,江南一帯に順調に勢力を伸張させ,1363年(至正23)に西系紅巾陳友諒を滅ぼし,1366年(至正26・龍鳳11)には小明王を謀殺して,東系紅巾の頂点に立ち,明朝の建設を果たした。皇帝に即位後の朱元璋は,白蓮教を禁じたものの,なおしばらくは紅色を戦士の旗幟としていた。なお,東系紅巾の北伐軍の一隊は,遼陽から高麗に進出して韓民族の激しい抵抗にあい,別隊は関中から甘粛・四川を攻略した。朱元璋の場合と,山東で屯田などを行って民政に留意した毛貴の場合とを除いて,東系紅巾の各集団には明確な政治プログラムはなく,また各集団間の緊密な連繋もなく,各集団の離合はつねならず,かつ集団内の内訌も稀ではなかった。西系紅巾の反乱は,1351年8月にホウエイギョク※注2※が徐寿輝を皇帝として天完国を建てたことに始まる。徐寿輝は長江中流域を基盤に,湖広・江西・四川・雲南などを攻略したが,東系紅巾のごとき反元民族主義は明瞭ではなく,したがって紅巾は反乱の象徴としての意味が強かった。内訌によって1360年(至正20)に陳友諒天完国を滅ぼして漢国を建てると,明玉珍は四川に夏国を建て,ともに紅巾を継承した。しかし漢国は1363年に朱元璋に敗れ,夏国も1371年(洪武4)に明朝の膝下に屈した。明代には紅巾を標幟とした反乱は史料的に少ないが,もはやそれは民族主義の旗幟ではなく,反乱のシンボルとして用いられていたようである。清代になると,紅巾反清復明の民族的抵抗運動の象徴としての意味を再びもつようになり,天地会拝上帝会にもその影をみることができる。なお,紅巾軍を別に紅頭の賊という表現から,紅巾は紅い頭巾をまとうと解されているが,必ずしも頭巾のみでなく,紅衣や小紅布を腹背に懸けることをも含めて考えるべきであろう。

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