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●黄巾の乱 こうきんのらん

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国,後漢末の大農民反乱。反乱軍が黄色の頭巾をつけて目印としたのでこの名がある。後漢時代,豪族の勢力拡大とともに農民の窮乏・転落がすすみ,伝統的な郷里社会の秩序は崩壊していった。とくに後漢の中期以降,天災・疾病・飢饉が相継ぎ,羌族の反乱もあり,しかも政府は外戚と宦官の権力争いで腐敗し過重な誅求をつづけるだけであったから,農民は困窮して流民となるものが激増し,豪族の隷属民となったり盗賊となるものも多かった。このため窮乏農民・流民の反乱が局地的にしばしばおこっていたが,ついに184年(中平1)黄巾の乱が勃発し全国的な動乱となったのである。

 順帝(在位126〜144)のとき干吉が神仙術を説いて『太平清領書』を伝えたが,霊帝(在位168〜188)のとき鉅鹿(河北省平郷)の人張角がその教えを受け継ぎ民間の信仰などをあわせて“太平道”という宗教を唱えた。張角は自ら大賢良師と称し,黄老の道を奉じて弟子を養成し,病人の治療に従事した。その療法は,病気は自己の罪によるとして,罪を反省し懺悔させた上でお札と霊水を飲ませ呪文を唱えて治すというものであった。治療という方法で,たちまち貧窮にあえぐ農民らの心をとらえ,10余年間で河北・河南・山東から長江流域にかけて数十万の信者を得るにいたり,これを36の「方」に組織しそれぞれに指導者をおいた。大方は1万余,小方は6,000〜7,000人で軍事的組織でもあった。この勢力拡大に対し政府は弾圧を加え解散を命じたが,かえって信者の団結は固くなり,農民らの不満を反映して革命運動に転じた。やがて張角は自ら天公将軍と称し,弟の張宝と張梁をそれぞれ地公・人公将軍とし,〈蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り,天下大吉ならん〉のスローガンをかかげ,宮城の門や州郡の官府に白土で“甲子(きのえね)”と落書し,宮中の宦官とも連絡をとり蜂起の準備をした。スローガン中の“黄天”とその目印とした“黄巾”は,五行思想によると,漢の火徳(赤)に代わる土徳の色で,漢王朝打倒を明確な目標としたことを示すと考えられているが,黄老信仰にもとづくという説もある。“甲子”は干支の最初で万物の一新する年である。甲子の年・甲子の日である184年3月5日に決起を予定していたが,事前に密告するものがあって企てがもれ,洛陽に潜入していた大方の馬元義が捕えられ弾圧が始まると,2月に各地で一斉に蜂起し,たちまち大反乱となつた。

 事の重大さに驚いた政府は,何進を大将軍として洛陽諸軍を統轄させ,洛陽周辺に八関都尉を置き洛陽の守備を固め,党人の呼応を恐れて党錮の禁を解除するとともに,皇甫嵩・朱儁(しゅしゅん)らを将として鎮圧に当たらせた。各地の黄巾軍はしだいに撃破されていき,たまたま張角が病死し,張梁や張宝も戦死したため,11月にはほぼ鎮圧された。しかし,この乱に呼応して各地で反乱がまきおこり,黄巾の余衆の反乱も相継いだ。すなわち翌185年(中平2)には太行山脈周辺から河北・河南にかけて黒山の賊と呼ばれる反乱があり,188年(中平5)には黄巾の一派である白波賊が山西で蜂起し,山東では青州や徐州の黄巾が勢いを奮いつづけ,その余波は20年近くに及んだのである。このため,地方の秩序は乱れ,後漢王朝の威信は失墜し,群雄割拠を招くことになり,ついに後漢の滅亡は決定的となったのである。また,黄巾の余衆は群雄の勢力下に吸収されていった。

〔参考文献〕大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座 世界歴史5』1970

木村正雄『中国古代農民反乱の研究』1979,東大出版会

谷川道雄・森正夫編『中国民衆反乱史1』1978,平凡社

福井重雅『古代中国の反乱』1982,教育社

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