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●工業 こうぎょう

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 工業には,次のような種類がある。具体的には,染織工業(製糸業・紡績業・織物業・組物編物−たとえばメリヤス業)・機械器具工業(機械製造・船舶車両・器具製造)・化学工業(窯業−セメント・陶磁器・製紙業・発火物製造−マッチ・製油製蝋業)・飲食物工業(醸造業−たとえば和酒)・雑工業(印刷製本・木竹製品業)・特殊工業(たとえば金属精錬業)であるが,これは明治・大正期ごろまでの工業の種類である。

【明治・大正期の傾向】工場という名称が冠せられる蒸気機関使用工場は1885年(明治18)段階では,綿糸紡績業・精米・鉱業の3種程度で製糸業のほとんどは蒸気機関を使用してもそれを煮マユ用に使っているものも多かった。1892年(明治25)になっても蒸気機関使用工場は18%程度であった。また,当時の工場工業は依然として製糸・紡績・織物の3業種でこの3種だけで(当時工業に計上されていた鉱業を除けば),払込資本は57.0%,労働者は88.4%であった。1902年(明治35)現在の工場工業における重要工業を今度は労働者数でみると,製糸業12万6,000人,紡績業7万9,000人,マッチ業5万4,000人,織物業5万3,000人,船舶車両業1万9,000人,タバコ業1万6,000人,窯業1万3,000人,印刷製本業1万人などで,そのほかは1万人以下であった。なお,1日平均労働者数5人以上雇用の工場をもつ工業部門別生産価額の変遷を1909年(明治42),1914年(大正3),1919年(大正8)と5年ごとについてみてみよう。明治40年代以降は飲食物工業,陶磁器を主体とする窯業,和紙を主体とする製紙業,製油製蝋業など伝統的工業が減少している。その反面,地位を著しく上昇させた工業は染織工業の24%→46%→49%への増加と,機械器具工業の3.8%→8%→16%への増加である。前者では輸出産業である生糸と綿糸の比率増加が著しく,後者では明治初年以来輸入に頼っていた機械製造と船舶製造が増加したためである。第一次世界大戦のための輸入困難と日本の供給力増加による。

【原動機種類・比率】工業のエネルギー源としては水力・蒸気力・石油・電気などがあるが,石炭は蒸気力を原動力とする工場の発展とともに明治期の主流となり,日本型水車や石油発動機は明治末期には明らかに小規模工場の原動機となった。電力を原動力とする工場も,1907年(明治40)には電動機原動力の40%は小規模工場に用いられていた。しかし,1917年(大正6)には小規模工場では15%,大規模工場で40%と逆転し,総馬力数に対する電動機馬力の比率も7%から32%にふえている。第一次世界大戦直後には原動力の石炭から電力への移行が始まるのであり,電気事業が電灯からエネルギー産業へ供給先を転換するのもこの時期である。5人雇用以上の工場の場合,原動機比率は1909−1914−1919年,製糸業で67.4−76.6−84.2(%,以下同),紡績業で97.4−98.0−98.2,機械製造業で75.4−87.9−93.1,造船業で30.3−31.5−38.0である。これを500〜999人,1,000人以上の工場でみると4業種とも,3指標年とも,各々100%を示す。

【主要工業地の変動】府県統計書によって蒸気力をもつ資本金1,000円以上の工場の地域性を,まず1879〜90年についてみると,大阪・東京の工場数が,長野を含む日本全国府県の工場数を超えていることがわかる。長野は製糸工場を多数輩出させたが,水力・蒸気併用工場が多く,水力を動力に蒸気を煮マユ用に使った。以上の指標では大阪・東京・横浜・名古屋・神戸・福岡など主要工場地帯の形成がすでにみられる。そして40年後の1919年の5人以上雇用工場の労働者数を多い順からとると,大阪・東京・兵庫・愛知・長野・神奈川・京都・静岡・福岡の順となる。全国に占める上位府県シェアと工業は,大阪(労働者数13.8%,生産価額16.5,第1位工業綿紡績,第2位綿織物)・東京(11.1%,11.7%,機械製造,綿紡績)・兵庫(9.9%,11.9%,造船業,綿紡績)である。大阪は明治・大正期を通じて綿工業で東京をしのぐが,東京は1886年も第1位工業は機械製造であり,昭和期京浜工業地帯形成に伴い大阪を抜く。

【わが国工業の特徴】明治政府は関税自主権をもたなかったため,在来産業を重視しなければならなかった。輸出できたものが原料ないし土産的産業の製品だけであったためである。その主要なものは生糸・茶・銅・石炭・陶磁器・絹織物などで,事実,1890年(明治23)までとっても生糸・茶両者合わせて総輸出額の50%を占めていた。一方,綿織物や砂糖の輸入に対抗して綿紡績・製糖にも力を入れた。綿糖共進会を開催して,国産化を促したが,二千鐘紡績所・紋別製糖所の官営そのほかの保護政策は成功したといえない。以上は1873年(明治6)成立の内務省が担当した。1870年(明治3)成立の工部省は鉱山・鉄道に興業費の80%を支出したが,重化学工業のセンターであった。しかし,釜石製鉄所,長崎・兵庫造船所,摂綿篤(セメント)製造所・白煉化石製造所・品川硝子製造所など官営工場は政府の必要とするものを供給した。内務省と違い,工部省は民間工業を育成する殖産興業政策性格を欠いていたが,官業払い下げで結果的に育成を果たした。ただし,鉱業に財閥を進出させ,造船・セメント・白煉瓦の工業分野ではなるほど払い下げは大きな役割を果たしたが,わが国の工業を政府がすべて育成したのではないことは確認しておかなければならない。また,軍事工業が明治政府の必要から世界水準に早期から到達したということはまったくない。日清・日露両戦争とも輸入軍艦で戦わなければならない海軍であり,重工業の発展がない段階で軍事工業だけが自給自立することはありえないのである。したがって日本の工業の発展は綿紡績業を中心とする軽工業→機械造船などを中心とする重工業→レーヨンなどを中心とする化学工業というような順序でノーマルに発展した。重化学工業は,第一次世界大戦を契機とし,京浜工業地帯の形成・軍事工業への民間企業の進出(工廠製作の巨艦「大和」と同型「武蔵」を三菱で製作は好例)によって促進された。そして,太平洋戦争後,両大戦間の民間の重化学工業体制は崩壊することなく,戦後の高度経済成長を支えた。次に日本の工業のうち,明治以来重要な工業である紡績業・綿織物業については別項を参照願い,ほかの各段階の重要工業について,技術的面もみながら,その発達の順序に従って以下に叙述しよう。

【製糸業】製糸業は在来の座繰生産方法の改良から始まった。それは器械製糸の普及であって,小野組築地製糸場(60人繰り,1871年設立)・官営の富岡製糸場(450人繰り,1872年設立)の二つを模範としている。これらで働いた女工の技術が各地につくられたこれらのミニチュア工場として伝播した。地方でそれが真似られる姿は,先進国水準の簡便化にすぎず,座繰製糸はそのため広範に残った。しかし,長野県では1882年,機械製糸の普及率は生産額の45.6%,横浜出荷額の61.9%を占め,1892年に全国の器械製糸は国内生産額の40.9%を占め,座繰を抜くのは1894年(明治27)となる。長野県がほかに優越していたのは,片倉組・小口組・山十組・岡谷製糸・山一林組・尾沢組などの巨大製糸家が現れたためである。これらは諏訪が中心で,製糸家が結社をつくり,横浜の売り込み問屋から直接資金を借り,横浜へ出荷できたためで,片倉組は豪農片倉兼太郎によって座繰り製糸からはじめ,片倉製絲(1920年株式会社化)となり,原料マユの輸送難から県外に新設し始めた。また,京都府何鹿(いかるが)郡製糸家を集めて郡是製絲(168かま)が1896年(明治29)設立,蚕種の段階から優良糸生産に力を注いだ。やがて郡是・片倉は2大巨大会社となり,ヨコ糸用しか使えない普通糸の生産しかできなかった日本製糸業は,やがて,タテ糸用まで製作できるようになり,アメリカヘの輸出をいっそう促進した。第一次世界大戦までには,御法川式多条繰り機を導入して機械化も一層進んだ。しかし,大戦後恐慌とそれにつづく金融恐慌,1929年(昭和4)の世界恐慌は,対米依存で広範な農家副業でもあった製糸業を苦境に陥らせ,農民離村をもたらした。しかし,高級薄地くつ下の原料となる高級生糸を製出して対抗,日中戦争が始まるまで生糸の輸出は増大した。

【造船業】近代的造船所として1871年(明治4)10月完成した横須賀製鉄所は当初,工部省に属していたが,1872年海軍工廠となり,初めは民間機械や官営生野鉱山の採鉱機械,また工作機械の製作にも応じていた。しかし,1883年(明治16),これを中止,軍艦の製作・修理に進む。1884年(明治17),工部省に属していた長崎造船所は三菱へ貸し下げられ,1887年払い下げられ,同じく兵庫造船所も1886年,川崎に貸し下げ,1887年払い下げられ,民間2大造船所が誕生した。一方,民間造船所として官営石川島造船所あと敷地とドック・付属工場を借用して,1876年(明治9)10月開業したのが石川島平野造船所である。官営横浜製鉄所の設備も1879年借用している。以上のほか,ハンター(イギリス人)の手で創設されたのが大阪鉄工所である。以上は,三菱造船所(現三菱重工)・川崎造船所(現川崎重工業)・石川島造船所(現石川島播磨重工業)・日立造船として,日本造船業を担った。1893年現在,以上4社を除く63造船所は,みな,木造船工場であった。政府は1896年(明治29)「造船奨励法」「航海奨励法」を公布した。前者は700t以上の鉄船・鋼船に補助し,後者は1,000t以上の汽船の建造または外国から買う場合(1899,国船の場合,半額に減額),補助金を与えるもので,1901年(明治34)鋼船建造量は3万2,000tとなり,輸入船を上回った。1895年(明治28)に浦賀船渠が創立され,三井物産船舶部(のち三井船舶,現大阪商船三井船舶)も造船業に参入するが,奨励金の多くは,明治年間を通じて三菱20万t,川崎7万7,000t,大阪鉄工所3万t,石川島2,500tであった。軍艦は1911年(明治44),三菱・川崎で巡洋艦(2万7,500t)を引き受けるまでに技術が向上した。三菱は1898年常陸丸6,000tを完成,1907年に東洋汽船の天洋丸・地洋丸(各1万3,500t,速力20ノット)を引き受けるなど,明治年間5,000t級船35隻中,30隻を引き受けたが大戦後軍縮で打撃を受け,三菱長崎は8,500人の解雇(1922〜25)もあった。しかし,大戦中には造船奨励法を返上するほど,造船業は自立を始めた。

【機械工業】横須賀製鉄所(のち造船所)は官営愛知紡績所用水車も製作しているが,むしろ産業機械・鉄材の輸入代理店的役割を明治期に果たして,民間機械工業を刺激した。また,赤羽の旧久留米藩邸跡に佐賀藩が幕府に献上したオランダ製機械をもとに設立された官営赤羽製作所は,〈広ク官民ノ需ニ応シ諸器械ヲ製作スルノ業ヲ起ス〉とされ二千鐘紡績機10台をつくったが不良で1台で製作中止,海軍省へ吸収されたが,同所の機械・技術は民間工場にとって利用価値があるものであった。幕末「からくり儀右衛門」といわれ,佐賀藩精煉所方で銃砲・造船を手がけた田中久重(1799〜1881)でさえ,しん棒など基幹的部分を同所で削ってもらっていたことは久重の1876年(明治9)4月の日記に記述されている。久重は金銀細工・和時計・銃砲など旧幕時代の技術を身をもって伝えている人物。上京して工部省電信寮製機所の下請けで,モールス式電信機や鉄製旋盤まで作製,民間機械工業の開祖(1873年11月設立の珍器製造所から数えると)として,メリヤス機械・綿取機械まで引き受けた。久重の弟子に沖秀太郎(沖電気創始者),洋式時計技術の導入者田中精助がおり,製機所出身者には石黒慶三郎と杉山鎌太郎(石杉社,現安立電気),三吉正一(白熱社,のち東京電気)がいる。2代目久重は1882年(明治15)田中製造所を設立,民間最大(750坪)の工場であったが,1893年(明治26)三井銀行に抵当流れとなり芝浦製作所,1939年(昭和14)国産電球の東京電気と合併,総合機械メーカー東京芝浦電気へと発展,また,田中製造所の下請けに池貝庄太郎がおり,池貝鉄工所へ発展する。こうして,在来技術は継承されたが「腕とカン」に頼る伝統は良かれ悪しかれ,日本機械工業に残された。庄太郎の弟喜四郎は外国の雑誌やカタログから機械のすべてをただちに理解できたので「カタログ博士」と呼ばれた。しかし,喜四郎が1905年(明治38),米英両式を折衷した「アイノコ」盤(池貝式標準旋盤)をつくった技術は,東京高等工業に旋盤納入のさい,フランス人教師に精密な検査を受けて完成した。池貝は翌年,同人を雇い,マイクロメーターを使った精度管理を行った。同人はのち豊田式織機(のち,自動織機)でも近代工法を教えた。豊田佐吉は1897年(明治30)木製動力織機を発明,1907年(明治40)鉄製広幅織機を完成,後年,イギリスのプラット社製を駆逐する。工作機械は新潟鉄工所・汽車製造・東京瓦斯工業(いずれも車輌工業出身)・大隈鉄工所(めん機製造出身)・唐津鉄工所(鉱業出身)などがある。重電機には石川島造船所が1894年(明治27),発電機を東京電燈に納入したのが契機となり,生産協定で石川島がこの分野を退き芝浦製作所がアメリカのゼネラル=エレクトリックとの提携もあり第一人者となる。そののち重電機に三菱造船所が進出,1921年(大正10)三菱電機として神戸造船所から独立,一方,鉱山から独立したのは日立製作所・安川電機・古河電気工業である。また,新興財閥の重工業進出では,鮎川義介が芝浦製作所を辞任し,渡米して鋳物を研究,戸畑鋳物を設立,ダット自動車製造を買収,石川島自動車を合併,1934年(昭和9)日産自動車とした。

【化学工業】広義の化学工業には耐火煉瓦・セメント・硫酸・ガス・ガラス・製紙・製糖などがあるが,政府は金銀地金分析の必要から硫酸製造のほかは着手が遅れ,1887年(明治20)東京人造肥料(のち日産化学)が民間工場として設立されたが当初は販売に苦心した。セメントは官営工場を払い受けた浅野セメント(日本セメント),長州藩士笠井順八の小野田セメントなどが工業や都市の発展につれて確立したが,ガラスは三菱系の旭硝子・住友系の日本硝子がでてくるまでは,板ガラスは完成しなかった。第一次世界大戦後,ソーダ・合成染料が巨大外国化学工業の攻勢にさらされると政府の力を借りて保護関税・輸入許可制などを採用した。ソーダ・硫安などはレーヨン工業の発展もあり成長した。レーヨンは化学工業で,鈴木商店が1918年帝国人造絹糸(旧東工業)を国産技術で,日窒の野口遵が1922年旭絹織(のち旭化成)を外国技術資本で,三井物産が東洋レーヨンを関税引き上げ直後の1926年(昭和1),1,000万円の巨大資本で設立した。

【昭和戦時下の動向】1931年(昭和6)の満州事変を契機として管理通貨制度をとることで,軍事支出については歯止めが撤去された。金輸出再禁止による輸入品価格の高騰と為替相場の低落から輸出産業の活況と一連の新興産業(硫安・ソーダなどの化学工業,アルミなどの軽金属,自動車そのほかの機械工業)を勃興させた。新興財閥の進出,軍事工業の活況はこれに設備や原材料を供給する機械・鉄鋼・各種の鉱業の活況を呼びおこした。歳出中に占める広義の陸海軍合計の軍事費の比率は1931〜36年で38.0,40.8,43.6,48.9,52.1,52.7%と増大していった。ところが官営軍事工業は銃砲弾丸・兵器製造業や火薬製造業をほぼ独占し,鉄製錬業および材料品製造業には大きな比重を占めていたが,内燃機関・通信機器・航空機・自動車などの近代兵器に属する業種において民間工業に依存するようになっていた。すなわち,前述したように軍事工業がそれだけで独立できない,重化学工業の背景を要することがここへ来て,明白となったというほかない。そのことは民間工業の重化学工業の確立を逆に意味することになる。こうして,昭和初年から敗戦(1945年)までの兵器・軍需品における民間工業の生産量の比率は急速に高くなる。陸軍用では,銃・火砲生産額の55〜70%,火砲用弾丸の50%,戦車の95%,自動車の100%,電波兵器の93%,光学兵器の98%(全体で65%),海軍用では艦艇の60%,砲の30〜40%,水雷の70%,電波兵器の100%,火薬の60%(全体で60〜70%)が民間側の生産に属するのである。民間の重化学工業(金属・機械器具・化学)が軽工業(紡織・食料品・製材および木製品・印刷製本)に対し,生産額の比率で変化をみせるのは,1926年(大正15・昭和1)で,上記の種類の工業の重化学工業対軽工業の比率は24.3対66.lが,25.0対60.3と変化する。そして,5人以上使用工場労働者数の比率は,1931−1934−1937年で22−32−42%と急速に増大する。日中戦争以降は既成財閥が,本格的に軍需をふくむこの部門に進出する。

自動車産業航空機産業】わが国で自動車の製造が実現したのは1911年(明治44)橋本増治郎による快進社で,1914年(大正3)に2気筒15馬力の純国産乗用車「脱兎号」第1号を発表した。第一次世界大戦の経験から陸軍は1918年(大正7),軍用自動車補助法を制定し,国産トラックのメーカー・ユーザーの両方に補助金を与えたが,快進社(ダット自動車)・東京瓦斯電・石川島造船などが,指定会社とされた。陸軍はさらに,1936年5月自動車製造事業法を実現させた。自動車製造は許可制となり,豊田自動織機(現,トヨタ自工)・戸畑鋳物(現日産)の2社が許可会社となり,遅れて石川島と瓦斯電が合併したいすゞが加わった。輸入車を制限する一方,小型車の生産を制限したので,各社は中型車へ転換したが1939年(昭和14)以降,軍事上の必要から生産の重点を貨物自動車のみとし,乗用車は生産を認めないこととされた。なお,政府は工作機械製造事業法(1938年3月)・航空機製造事業法(1938年8月)・造船事業法(1939年12月)を制定,軍需製造を助成した。1942年(昭和17)兵器等製造事業特別助成法による助成はおもに航空機会社が対象となっているが,その前年,戦争指導部は航空機生産が勝敗を決する重要な要素とみて,次に船舶と一次的兵器の生産を重視し,ほかの兵器・軍需品の生産はほとんど無視するほかなかった。もっとも,航空機会社の大部分は大正年間に発足している。中島飛行機・三菱重工業・川西航空機・愛知航空機・瓦斯電・日立・川崎航空機工業・立川飛行機がそれで機体・発動機をつくった。プロペラは1934年(昭和9)住友金属や日本楽器がつくった。1932年から実施された海軍の3カ年連続の重点機種国産設計試作が実のり,三菱の九六式艦上戦闘機・陸上攻撃機,三菱の空冷複列星型「金星」と,中島の「栄」の各発動機が世界水準に達した。九六式艦戦は有名なゼロ式艦戦へ,九六式陸攻は一式陸攻へ,と発展した。こうして海軍が二式艦上偵察機を設計した以外,すべての設計・製造も民間工業が生産した。三菱・中島だけで全従業員は約70万人に達した。

【敗戦後の工業発展】敗戦によって特別損失の最も多かった工業は機械工業・化学工業であったが,戦時補償も1946年(昭和21)10月に打ち切って,政府は同年末,「傾斜生産方式」で鉄鋼・石炭に集中させ,復興を促進させようとしたが,朝鮮動乱特需・輸出で事実上,回復の速度が早まった。機械工業は1952〜53年からアメリカの電気溶接機の導入により造船業が,電源開発と家庭電化の伸びを反映して電機部門の近代化が進んだ。1953年のテレビ放映開始,同年のソニーのテープレコーダー第1号の生産。新興産業の分野では,東洋レーヨンのレーヨン・倉敷レイヨンのビニロンの量産体制整備や,日産・トヨタの生産,石油化学部門で三井・三菱・住友・日本石油の4グループが起業計画段階に入ったのは1953年である。追放によって若手経営者が登場し経営革新となったが,工業も戦災によって技術革新がなされたと考えられる。『経済白書』昭和31年度版が〈もはや戦後ではない〉と書いたころから高度成長期に入った。しかし,これは石油化学・合成樹脂・合成繊維・電子工業・原子力機器・自動制御などの大部分が外国技術の導入によったし,政府も外国為替管理法を設け企業合理化を促し,前者は国産化まで外国品輸入を制限,後者は重要産業の近代化設備に対する特別償却と固定資産税減免を行うことで,近代化投資が重化学工業中心に発展した。1955年(昭和30)に比して1969年には,鉱工業生産指数が3.55倍,国民所得に占める第2次産業所得は1955年に比して1969年には30%から40%へと上昇した。鉄鋼・造船・化学・石油精製コンビナートが東京・大阪・名古屋の3大工業地帯に集中し,1970年には光化学公害も顕著となるなかで,乗用車・コンピュータ分野でも技術が自立化した。

〔参考文献〕古島敏雄『産業史III』1966,山川出版社

有沢広巳他『日本産業百年史』1966,日本経済新聞社

小林正彬『日本の工業化と官業払下げ』1977,東洋経済新報社

小林正彬『近代日本経済史』1982,世界書院