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●鉱業(日本) こうぎょう

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 日本経済と日本の財閥が立脚した,徳川時代および明治以降から大平洋戦争後までの代表的産業。1970年前後に閉山相次ぎ,石油と輸入鉱石に頼り,斜陽化した。

徳川時代の鉱業】幕府が本格的に鉱業に取り組んだのは南蛮貿易に銀が必要であったためであるが,外商たちは日本から銀を積み出し,金銀比価の不同を利用して巨利をむさぼった。しかし1668年(寛文8)銀輸出が禁止されると,今度は銅が輸出の大宗となった。1690年(元禄3)に愛媛の別子銅山を銅商泉屋吉左衛門(住友)が開発し,秋田の阿仁・尾去沢とともに御用銅山とされ,輸出銅の供出を義務づけられた。栃木の足尾銅山もこのころ,別子と並ぶ規模に達していた(別子と足尾は銅脈を同じくする)。チリで銅が発見されるまで日本は世界一の産銅国であった。しかし乱掘がたたり,1685年の産出量5,400トンが1860年にはわずか1,000トンに減少した。そのほか,ペリー来航の1853年以降,南部藩で岩手の大橋の釜石高炉が大島高任(たかとう,1826〜1901)の手で1857年末,鉄鉱石から溶鉄に成功,水戸藩反射炉用に提供,佐賀藩とグラバー(1838〜1911)との合弁で長崎で開発された高島炭坑は蒸気機関巻き揚げ機を使う最初の洋式立坑として1869年4月,地下45mで着炭に成功した。

【明治政府の鉱業政策】新政府は金銀などが貿易決済・外貨獲得に必要で,鉱業は重視された。政府は大阪の幕府銅産役所を接収して銅会所とし,幕領の兵庫の生野,新潟の佐渡両金銀山を官収したほか,藩領鉱山については盛岡藩の小坂銀山を1868年(明治1)年官収したほか放置し,廃藩置県後,三池炭坑(福岡),大葛・真金(金山,秋田),高島・釜石・阿仁・院内(秋田),中小坂(鉄山,群馬)を官収した(油戸炭坑は佐渡付属として1879年官収)。また,1873年「日本坑法」を発布し,日本で発見する鉱物はすべて政府の所有で,政府だけが採掘の権利があると宣言した。これは外資排除と本国人主義を意図したもので,高島炭坑は1874年1月,グラバーからオランダ商社と佐賀藩の合弁となっていたが官収され,11月には後藤象二郎に払い下げられた。同法は民間資本の進出を拒否したものでも政府の絶対王制的性格を表したものでもない。官鉱約10鉱を工部省に所属させ一等寮とした以外,借区料・坑物料を納めれば採掘は自由で,その財政収入は明治10年代を通じて0.1%にも満たなかった。ただ開坑者を年間500坪(1650平方m)当たり一人の割合で労働者を300日以上雇用できる者に限り(同法,第20款),開採する資本がない借区人は他人がその借区に掘り進んできても拒めない(第14款)とあり,この競合促進策により,旧幕府同様,資力のある者に採掘は集中することとなった。かくて,五代友厚が福島の半田銀山を,岩崎弥太郎が岡山の吉岡銀山を,三井が岐阜の神岡銀山を,小野組が阿仁・院内を開採するが小野組は破たんし,同組番頭古河市兵衛足尾銅山を,住友も別子銅山が一時没収されたのを,番頭広瀬宰平の努力で手に入れるのである。

【官営鉱山の払い下げ】工部省は鉱業にその成立から廃省まで(1870〜85)に通常費の31.5%(鉄道は47.9%)を投じたが,官営鉱山を模範官業とは考えず,良鉱で緊急に心要な正貨の直接的獲得をめざした。したがって,官鉱の金産出高は1877〜81年平均(カッコ内は1882〜86年平均)で,金73%(47%),銀56%(30%),銅7%(3%),鉄25%(34%),石炭17%(21%)を占めた。すなわち,金銀は政府が掌握し,輸出重要鉱物である銅は民業に委ねる姿がみられる。鉄・石炭の民鉱の比率も高いが,官鉱の支配の減少は,官業払い下げと民鉱の飛躍的発展をも意味する。1880年11月5日,「工場払下概則」が布達されたが,政府は赤字の14工場だけを処分しようとして,ドル箱の鉱山は対象から除いた。払い下げが進まず,ために1884年7月5日,鉱山の払い下げを布達したが,〈佐渡生野三池阿仁ノ四鉱山ヲ旧ニ依テ官坑ト為シ爾余(じよ)ハ民業ト為ス〉とし,大幅黒字の鉱山は除外した(阿仁は技術的失敗もあり,払い下げられる)。「概則」も同年10月3日廃された。この段階で官鉱も官営工場同様,長期年賦で払い下げられ,小坂銀山が久原庄三郎へ,阿仁・院内が古河市兵衛へ払い下げられた。最後に,1881年4月21日「三池礦山払下規則」を成立し,三池が三井へ払い下げられた。政府は1890年9月「鉱業条例」を公布し,1893年6月,施行したが,このとき「日本坑法」で15年に限っていた稼行年限を永久稼行に改めた。こうして鉱業は民間のものとなった。また,明治以降,銀本位国であったわが国が,1896年金本位制を採用すると金と銅が鉱業の中心となった。三菱はその前年,佐渡・生野金銀山と大阪製錬所の払い下げに成功している(ただし代金即納)。

【財閥と鉱業】三池炭坑を455万5,000円(時価数十億)で,わずか2,300円の差で2番札三菱を抑えて入札に成功した三井は,三井物産が三池の石炭の一手販売を成立時から許されていたため,多大の犠牲を払って入手したが,物産・銀行・鉱山という三位一体を完成させた。一方,全国の1割を産出する巨大炭坑は,三井の炭坑傾斜の度を深め,非鉄としては神岡銀山をもつのみであった。三菱は三池入手に失敗したため,炭坑は高島買収以後,筑豊の鯰田・新入などを入手するが中規模炭坑を多数もつ姿をとる一方,非鉄金属鉱山の獲得はめざましい。三菱全収益のなかで炭坑の占めた比率は1886〜93年平均で40.7%(非鉄金属鉱山は6.9%)であったが1894〜1908年平均で23.5%(同上,41.2%)となる。それにしても三菱の鉱業依存率は高く,1894〜1917年平均で57.5%を占める。石炭よりも銅に依存する財閥には,住友・古河・久原・藤田などがある。住友・古河・久原は銅価の低落の場合にも電工部門を系列化(住友電工・古河電工・日立製作所)した。古河は足尾鉱毒で賠償金を1907年までに150余万円を払い,住友も製練所の煙害をひきおこしたが,これはダイヤモンドきり・さく岩機・火薬使用の増産と製練拡大による。1919年石炭を加え鉱山価額順位で,財閥では,1位三菱,2位三井,4位古河であった。

【生産拡大と不況】鉱業生産量拡大を1897年を基準に10年ごとの増加率でみると,金(2倍,6倍,15倍)銀(1.5,2.5,4),銅(2,3,6),鉄(2,3,11),石炭(3,8,17)となり,金と石炭の伸びが注目される。第一次世界大戦までの非鉄金属では絶対量でアメリカに次ぐ産銅国日本は大戦後,アメリカが画期的コスト引き下げに成功すると,1920年銅の生産・販売カルテルを結成して対抗したが,世界の銅不況から市況は1934年の準戦時体制下の増産時代まで回復しなかった。一方,亜鉛・アルミニウムなどの新素材が注目され,航空機工業の確立に伴い,1935年,三菱・住友・古河・安田の共同出資で日本アルミニウムが設立され,1939年には古河と東京電燈の共同出資で日本軽金属が零戦の製造を可能としたジュラルミンの開発に成功した。一方,石炭も1921年石炭鉱業連合会を結成,撫順(ぶじゅん)炭輸入に対抗,また合理化を進め,50万〜100万トン規模の炭坑が三井・三菱・北海道炭砿汽船(三井が系列化)に出現した。鉄も三井が釜石鉱山など3社,三菱が三菱製鉄を分離,八幡製鉄所に合同,1934年日本製鉄となった。

【鉱山労働と戦後】高島炭坑事件に伴う納屋制撤廃を契機に「鉱業系列」に保安対策が導入され,同条約を改正した1905年「鉱業法」で,現金払いを規定したが,坑夫の稼いだ石炭高を切符で払う「山札」も消滅せず,会社の直轄制への転換は機械化の進行が日本の炭坑鉱脈の複雑さもあり遅れる。鉱山も幕末からの「友子同盟」の残存から合理化に反対した。「鉱夫労役扶助規則」(1916年)で女子幼年労働の保護を決めたが,実現は昭和期で,戦時には植民地労働者への強制労働がこれに代わった。

【戦後】傾斜生産方式の採用と朝鮮戦争ブームで,1951年5,000万トンに炭坑は復活したかにみえたが高炭価は石油流入を容易にし,非鉄金属もコスト高で海外投資に転換した。

〔参考文献〕小林正彬『日本の工業化と官業払下げ』1977,東洋経済新報社

通商産業省編『商工政策史』22・23巻,1966,80,同刊行会