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●公儀 こうぎ

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 おおやけごとの意味から,中世・近世で天皇・朝廷や将軍・幕府など公権力,およびそれにつらなる人々や機構をさしてもちいられた。また,世間やそのつきあい,訴訟の意味でも使用された。

 公儀の言葉は『太平記』に公家や将軍などをさして用いられているのが早い例として知られている。しかし,公儀が個別の領主支配を越えた国家公権であることを強く意識して使用されるようになるのは,16世紀後半に戦国大名の権力集中が進められるようになってからで,近代になって公儀は統一的王権である将軍権力として完成した。

【戦国大名と公儀】戦国大名はその成長の過程で家臣と平等な立場に立つ一揆契状を結んだり,家臣から起請文を徴して,自己の権力を確立させようとした。こうしたなかで,家臣団に対する絶対的優位性と正当性を主張するために,戦国大名は家臣の私儀に対して,自らを公儀として位置づけ,家臣による下剋上の克服と権力の集中を計ろうとした。また,百姓の武家支配への抵抗に対しても,代官や家臣団の恣意的な所領支配を抑制し,公儀性を強調することで,これを支配下に組み込み,分国に対し一円的支配を確立しようとした。分国法は戦国大名のこうした努力の表れであり,鎌倉以来の道理にもとづく在地領主の秩序を否定し法の秩序を確立しようとしたものといえる。戦国末にはその結果,自己の分国の「国民」すべてに対する動員令を出すまで権力集中を進めるものも現れた。しかし,兵農分離制のなお確立していない段階では,それも十分なものではなく戦国大名はそこからくる権力の不安定を克服するために,さらに上位の権威を必要とし,都の朝廷や将軍にこれを求め,献金や上洛を行った。

織豊政権と公儀】繊田信長は上洛し足利義昭を将軍に擁立したが,やがてこれと対立し1573年(天正1)に京から義昭を追放した。義昭追放の後,信長は戦国大名や惣村結合をもとに武家支配を拒否しようとした一向一揆・法華一揆と戦うなかで,室町幕府にかわる公儀の確立を迫られた。そこで,信長は天皇・朝廷との関係を深め正二位右大臣にまで進むとともに,これを辞位辞官して古代よりの伝統的権威からの自立した独自の公儀を創出しようとした。この際,信長は家臣とのあいだでは武者道の強制による専制的主従制の形成をめざし,一揆勢力に対しては徹底的弾圧を加えるとともに,その宗教的権威を否定するために安土城に総見寺を創立して自らを神格化し,現世だけでなく来世をも支配する権力を創出しようとした。しかし,こうした信長の天下と公儀は,現実には支配の正当性を承認させ天下を統一するだけの具体的政策をもたなかったので,そのむきだしの武力によって苛酷な反対勢力への弾圧を進めながら内部から崩壊してしまった。 豊臣秀吉は山崎の合戦に勝利すると,山城をはじめとし畿内の領国に太閤検地を実施し,兵農分離を推進した。太閤検地は小百姓を検地帳に登録しその自立を進めることで,地侍・長百姓の支配や中間搾取から解放し,一揆体制を解体した。また,検地帳登録人を土地に緊縛し,刀狩り令などでこれを百姓身分に固定し,兵農分離を確定した。さらに,検地により田畑の生産力を米の生産量である石高で把握し,米納年貢制と石高知行制を確立した(石高制)。

 畿内の豊かな生産力を把握した豊臣秀吉はその強力な軍事力と経済力で他の戦国大名を圧倒する一方,関白となり,天皇・朝廷の権威を背景に諸大名と主従関係を結び,惣無事令を出して全国の戦国大名の戦いを私闘として禁止し,公儀の地位を確立させようとした。そして,これに従わない島津氏や後北条氏を討ち,天下統一を達成した。また,この過程で征服地の検地や国割(知行割)を実施し,大名に対する転封・改易を行い,全国の土地を公儀のものとする統一的土地所有を確立した。

 しかし,こうして権力集中を果たした豊臣政権も,統一過程における唐入り(大陸侵略)やキリスト教世界に対する神国意識などの対外的国家主権意識の拡張,統一政権の権力集中と大名権力の対抗,統一政権の政治機構の未成熟などを解決することができず,この矛盾の解決を求めて朝鮮侵略に踏み切った。この過程で,対外的には明を中心とする冊封体制よりの自立がはかられ,太閤検地の全国実施と御前帳の徴収による公儀と大名権力の確立が果たされたが,一方では,関白となって豊臣政権の公的側面を代表した豊臣秀次と天下人として主従関係の頂点にいた太閤秀吉との対立,田麦徴収令に代表される吏僚派大名の権力集中への指向と領国派大名の対立などの矛盾を激化した。このため,秀吉の死とともに豊臣政権は事実上崩壊した。

【江戸幕府と公儀】徳川家康は秀吉の死後,五大老の筆頭として伏見城で公儀を主催したが,関ケ原の戦いに勝利すると将軍となり江戸に幕府を開いた。そして,諸大名に人質の提出や参勤を強要する一方,公儀の城普請役に動員しこれを自己の軍役体制に編成するなどして,巧みに支配下に組み込み,主従関係を再編成した。また,将軍職を2年でその子秀忠に譲り自らは駿府で大御所(天下人)としてこれを後見することで,公儀を徳川家が世襲的に掌握することを天下に示した。そして,1615年(元和1)豊臣氏を滅ぼすと武家諸法度禁中並公家諸法度・諸宗本山諸法度を制定し,大名や天皇・朝廷・公家,寺社の上に君臨する公儀の基礎を築いた。さらに,家康が死ぬと,幕府は東照権現として日光山に祭り公儀をささえる神格的権威とした。

 こうして,家康によって再建された公儀は寛永期(1624〜43)に入って完成された。まず,紫衣事件・後水尾天皇の譲位・将軍家光の上洛を契機に天皇・朝廷・寺社などは公儀のもとに編成され,天皇はその職務を学問第一とされ政治的機能を封じられた。また,秀忠の死とともに二元政治が解消し,将軍のなかに天下人としての権威が吸収された。それとともに,将軍家光の側近を中心に幕府機構が急速に充実され,公儀は将軍を中心とした幕府機構としての内容を備えた。一方,対外的には朝鮮との国交の確立と鎖国とによって,対馬・長崎・蝦夷地を三つの口とし,琉球を扶庸国とする日本の主権者としての大君の地位が固まった。また,諸大名に対しては巡見使を派遣するなどして領内支配に介入し,百姓に対する苛政を否定し,公儀への訴訟の道を開くことで,中世末以来,百姓の求めてきた私的支配からの解放の願望を一定度吸収した公儀の権威を確立した。さらに,幕府は国絵図と郷帳を作成し全国の土地所有を把握した。このため,大名・旗本などの領主は幕府(大公儀)のもとで(小公儀)としてのその撫民を代行する存在として意識されるようになった。

〔参考文献〕朝尾直弘「将軍権力の創出 1〜3」『歴史評論』241,266,293号

佐々木潤之介編『大系日本国家史3』1975,岩波講座『日本歴史 9』1976