●江華島事件 こうかとうじけん
アジア 日本 AD1875 明治時代
1875年(明治8・高宗12)9月19日,日本の軍艦雲揚号が江華島付近で領海侵入し砲撃された事件。江華島は漢江の河口左岸の島で首都漢城はこの河口より90km上流である。日本はこれを契機に李氏朝鮮王朝を威嚇し,開国に踏み切らせ,大陸進出の第一歩をしるした。【開国の強要】鎖国時代,日本と朝鮮王朝は,平和な修好関係を維持していたが,幕未における内外の混乱のなかで一時国交はとだえていたので,幕府は1867年(慶応3)開国の事情を知らせるため使節を送ろうとし,つづいて明治政府が王政復古を知らせて国交の回復をはかった。初め,対馬島主宗氏を介し,つづいて外務省の官吏森山茂・広津弘信らを派遣,国交を開くための交渉を行わせた。しかし当時李氏朝鮮王朝では,年少の高宗に代わって実父興宣大院君(李是応)が政権を握っており,国内政治の混乱と欧米列強の侵略の危機に真面し,改革政治の断行と国権防衛の強化策をとっていたので,日本の提案を拒否し,1872年(明治5)には釜山の倭館(日本使節が宿泊し貿易を行う所)に対し燃料・食料の供給を断つ手段に出た。江戸時代以来の対等な善隣関係を打ち破り,“高圧的”な文書を送りつけた日本の態度も大院君に警戒の念をおこさせた。
【征韓論】日本には江戸時代から,佐藤信淵・橋本左内・勝安房など朝野をわかたず,征韓論が伏在していたが,維新後の朝鮮王朝の態度は改めて征韓論を刺激し,1873年(明治6)西郷隆盛・板垣退助らを中心に閣議で取り上げられるにいたった。その結果,即時征韓をとなえる西郷派は敗れ去ったが,内治論を主張する岩倉具視・大久保利通ら主流派たちも征韓そのものを否定したわけではなく,不平士族などの反政府の動きに対処し,欧米列強に一挙に追いつくための「征韓」ならば必要と考えていた。ただ好機を待っていたにすぎなかったのである。
【開国交渉の停滞】ところが1873年朝鮮王朝では政変があり,大院君が引退し高宗の妃の閔氏派が政権を握った。閔氏派の政策は大院君の改革政治に反対するだけで定見なく,対外盲従・協調政策をとった。そこでそれを問題視した日本は1874年(明治7)から開国の交渉を再開し,日本側の森山茂と閔氏政権の代表朴斉実とのあいだに正式会談が始まった。しかし閔氏政府内に残っていた大院君派が強くこれに反対したため朝鮮側の政策は一定せず,儀礼的な問題でも行き詰まった。これをみて条約交渉のため釜山にいた日本の外交官森山らは1875年(明治8)4月政変の性格を報告するとともに武力の威嚇による非常手段をとらねば交渉は成立しないと外務卿寺島宗則に献策した。
【武力挑発】この献策を容れた寺島は岩倉具視・三条実美らと協議し,極秘に陸軍少佐井上良馨の指揮する雲揚号など3隻の軍艦を朝鮮に派遣した。これらの軍艦は5月予告なしに釜山に入港し,閔氏派政権の抗議を無視して湾内に碇泊したまま示威のための発砲演習を行い,さらに朝鮮東海岸をへて帰国した。そして9月雲揚号は再び朝鮮西海岸から清朝の牛荘(営口)までの航路探索と沿海測量を行わせ,朝鮮王朝を挑発した。その結果1875年9月19日雲揚号が江華島の沖に投錨し,飲料水補給の口実を設けてボートをおろし漢江の支流運河を遡行しようとしたとき,江華島草芝鎮の砲台から砲撃を受けた。日本側は直ちに艦砲射撃で応じ砲台に多大な損害を与えた。さらに報復のため翌日江華島の南,済物浦対岸の永宗島永宗鎮を砲撃し,上陸して民家を焼き払い,軍民数十名を殺し,38門の砲を奪い,城塞に火をつけ引きあげた。ついで日本政府は12月特命全権大使に黒田清隆,副使に井上馨を任命し,ペリーの故知に学び,海軍力誇示が目標達成の近道と考え,軍艦輸送船6隻を率いさせて朝鮮に派遣した。翌1876年(明治9)1月江華府で交渉が開始された。日本は発砲に抗議するとともに修好条約の締結を迫った。朝鮮側では大院君派が反対し,これに同調する者もあったが,日本側の圧力も強く宗主国の清も戦争を避けて平和的解決を望んだため,ついに日本の要求に屈し,2月3日日朝修好条規が調印された。
〔参考文献〕山辺健太郎『日韓併合小史』岩波書店