●郷学 ごうがく
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江戸時代より明治初年にかけての,教育機関の一つ。郷校・郷学・郷学校・義校などとも呼ばれる。2種類あって,第1は武家の子を対象に藩校の延長として設けられたもの,第2は庶民教育機関用に設けられたものである。前者にはまた,幕府・諸藩自身が,領内の城下以外の地に散在する藩士の子弟のため設立した文武稽古所と,大名の支族・家老・重臣などが自分の知行地に藩校にならって建てた家臣教育所とがある。後者は領内各地の庶民を教育する目的で藩主・旗本・代官さらには民間有志のものが創設した学校で,民間有志が経営した場合でも,幕府・諸藩よりなんらかの保護・監督を受けた点において寺小屋とは一線を画している。【藩校の延長としての郷学】准藩校・小型藩校とでも呼ばれるべきもので,藩校を手本としてやや簡易化した施設。ゆえに,教育方針・内容・方法など,すべて藩校のそれに準拠していた。また教師も多くは藩校の教授が兼任し,その監督もたいてい藩校自らが担当した。このうち地方在住の藩士のため諸藩自身が設けた郷学は,領内の交通が不便で藩士を各地に散在させた藩,要害の地を城下以外にもっていた藩,重要な飛地領のあった藩などに多くみられる。幕府の甲府徽典館,会津藩の猪苗代学校,熊本藩の伝習堂・教衛場・成美館,秋田藩の尚徳書院など,その好例である。それゆえ分布の状況は,関東・近畿のように大藩が少なく交通の便に恵まれた地方ではほとんど普及せず,東北・中国・四国・九州など大藩が多く交通の便を欠いた地域にひろがっている。また年代別では,江戸後期に入る天明・享和(1781〜1803)のころより幕末期に創設されたものが大多数で,藩校の普及と雁行しているのが特徴といえる。
【庶民教育機関としての郷学】この種の郷学で最古は,岡山藩主の池田光政が1668年(寛文8)に,領内に設けた123の手習所であった。領内各村の生活指導者を養成する目的でつくられ,その設立費はすべて藩当局が負担し,維持費のほうは,当初は藩が支給ししだいに父兄負担に移す方針であった。しかし,時期尚早だったため,1674年(延宝2)には整理して1郡1校を原則として全12郡14校のみを存続し,翌年にはさらに統合して和気(わけ)郡の閑谷校1校のみとした。この閑谷校は光政が1666年(寛文6)に計画し,2年後に実現し,重臣津田永忠が経営にあたって,1707年(宝永4)に没するまでその発展に尽くした。庶民の子弟に漢学の素養を授けるため学房・講堂・聖廟・文庫などの施設を整え,その規模においては藩校に劣らぬものであった。江戸中期に入り,1717年(享保2)には摂津平野郷に大坂の町人有志により含翠堂がつくられ,1723年(享保8)には江戸に菅野兼山の会輔堂ができ,翌年には大坂で三宅石庵の懐徳堂の創立をみた。会輔堂・懐徳堂は幕府の援助によるものであったが,町人間における学問教養の水準向上に残した足跡は大きかった。けれども,庶民教育機関としての郷学が隆盛になるのは江戸後期,19世紀に入った文化・文政期(1804〜29)以後のことである。1883年(明治16)に文部省の調査した『日本教育史資料』によると,文化・文政期までに開設された郷学の経営形態は〈官民協力によるもの〉が15校で絶対多数であったが,幕末の天保年代(1830〜43)に入ると〈幕府・藩・代官・邑主の経営によるもの〉が11校あって〈官民協力〉の3校を押さえて優位を占めるようになった。この傾向は弘化〜慶応期(1844〜67)にも受け継がれるが,この期にはまた,前記した含翠堂などの伝統を継承する〈民間有志の経営によるもの〉の進出が目立ち,さらにまったく新しい経営形態である〈町村または町村組合によるもの〉が出現した。後者は維新直後の1868年(明治1)に39校と激増し,〈幕府・藩・代官・邑主の経営〉〈民間有志の経営〉をしのぐほどとなった。神奈川県下の郷学校や旧福山藩の啓蒙所などはとくに著名であり,その多くはやがて小学校に改組されている。こうして郷学は,その経営形態・推移を通して近代公立小学校のありかたへと一歩ずつ近づいていった点で,とくに歴史上注目される教育機関である。
〔参考文献〕石川謙『近世の学校』1957,高陵社