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●航海条令 こうかいじょうれい

ヨーロッパ 英国 AD 

 イギリスの海運・貿易に関する規制法。広義では1381年リチャード2世の規制以降の諸法を総称するが,狭義では1651年のいわゆるクロムウェルの航海条令,1660年の通称「海上憲章」といわれる航海条令および1663年の貿易促進条令(通称は市場法)などを中心としたいわゆる重商主義政策の支柱の一つとなった諸法をさす。それらは植民地貿易の独占的機構の創造と整備を目的とした。

【1651年以前の航海条令】1381年リチャード2世の時代に,イギリスの貿易品の船積みをイギリス船に限定する趣旨の条令が定められたが,これが広義の航海条令の最初のものとされている。その後も類似の目的の条令がだされており,おもなものでも,1488年(ヘンリー7世時代),1540年(ヘンリー8世時代),1562年(エリザベス1世時代)などがある。

【1651年の航海条令】16,17世紀におけるイギリスの海外貿易の発展は,とくに17世紀になると当時海上権を握っていたオランダと激しく競争するにいたった。とくにピューリタン革命の勃発はイギリスの海外貿易を一時衰退させ,オランダの進出に絶好の機会を与えた。それに対する政府の強力な政策が要請され,共和政のもとで成立したのがこの条令である。その主な内容は,[1]非ヨーロッパ地域すなわちアジア・アフリカ・アメリカにおいて生産された商品の輸入はすべて,その船長と船員の大部分がイギリス人であるところのイギリス船によること,[2]ヨーロッパにおいて生産された商品の輸入はイギリス船あるいはその商品の原産地またはその商品が最初に船積みされる港に属する船によること,[3]沿岸貿易はイギリス船のみによること,などである。なおこのような条令の制定を強くもとめたのは,東インド会社・レヴァント会社・イーストランド会社などの特権的貿易会社であったことは注意されるべきである。

【1660年の航海条令】この条令は王政復活のさいの仮議会において定められた。1651年のそれを継承したものであるが変化もみられる。そこでは,[1]イギリス植民地において生産される商品の輸送先が規制された。すなわち植民地産の砂糖・タバコ・藍・棉花・しょうが・ファスティックその他の染料木など具体的商品名をあげて,それらは必ずイギリス船によって,しかもイギリスあるいはイギリス植民地にのみ輸送されねばならぬとされた(列挙生産物規定)。[2]ヨーロッパにおいて生産される商品のイギリスへの輸入については,特定の商品(ロシア産のすべての商品,マスト・木材など)を除き,輸入についての船舶規定制度はなくなった。しかし特定の商品および特定されなかった商品の検討をすると,そこにはモスコー会社・東インド会社その他の利益が守られていることがわかる。とはいえ全体としてこの条令は,従来のような単なる海運の保護奨励という性格から植民地生産物の独占という,植民地の本国への従属強化という性格へと一歩踏みだしている。

【1663年の航海条令およびその後】1663年の条令は,イギリス植民地がヨーロッパ産の商品を輸入する場合,すべて本国を経由すべきことを定めたものである。この条令にも特定の商品を除外する例外規定はある(ニューイングランドおよびニューファンドランド向けの漁業用塩,スコットランドおよびアイルランドからの奉公人・馬・食料品など)が,全体としてこれは植民地商業資本がヨーロッパと直接に貿易することを禁じたものであり,これによって植民地とくにアメリカの経済の再生産は本国に完全に従属させられることになった。航海条令はその後も改訂された(たとえば1673年,96年など)。しかしこのような植民地貿易の統制の強化は,植民地の産業および通貨・金融の統制の強化とともに,やがて植民地の不満を増大させ,アメリカ合衆国の独立をもたらす。一方これらの法は,19世紀に入っての自由貿易運動をまえに,1849〜54年廃止された。

〔参考文献〕宇治田富造『重商主義植民地体制論I』1961,青木書店