●黄河 こうが
アジア 中華人民共和国 AD
全長5,464km,流域面積75万平方kmの中国第2の大河。青海省バヤンハラ山北麓の源流から甘粛省蘭州・寧夏回族自治区銀川を北上し,内蒙古自治区臨河で東西に流れを変え,包頭を通過したのち,山西・陝西両省の境を南下し,華山山系に突き当たり再び東西に流れ,河南・山東両省を抜けて渤海に注ぐ。長江の緩やかな流れに比べ,標高差4,800mを一気に下る黄河の流れは実に激しいが,水源を出発した水は,1カ月をかけて河口に漸くたどり着くというスケールに驚かされる。渭河・汾河・洛河など40余の支流を含めた広大な流域地帯は,中国史の中心舞台となってきた。歴代の王朝の都を列挙してみると,殷墟・周鎬京・洛邑・秦咸陽・前漢長安・後漢洛陽・三国魏洛陽・西晋洛陽・北魏洛陽・隋大興・唐長安・宋ベンキョウ※注1※など,多くが黄河ないしは支流の地に位置し,黄河流域が政治的中枢として重要な役割を果たしてきたことがわかる。黄河流域を離れたのは,漢族が北方の諸民族に追われて江南に都を遷した東晋・南朝・南宋の場合や,北方の軍事的拠点の北京に都を置いた元・明・清の特殊な例だけである。魏晋南北朝時代から長江下流の江南の地域が開発され,やがてこの地が中国全体を支える稲作地帯として経済的中心になると,黄河流域は政治的中心を保持するだけで,とくに都の官人たちの食糧は江南に頼らざるをえなくなる。しかし古代においては,黄河流域が経済的にも先進地帯であり,それに支えられて政治的中心がおかれてきた。黄河がもたらす厳しい自然条件との闘いの歴史が繰り広げられてきたのである。黄河流域の年平均降水量は約400mmと長江流域の3分の1にすぎず,全降水量の3分の2は6月から9月に集中している。したがって,春の播種の時期には水分が不足して旱魃がおこりやすく,夏の豪雨では平常の10数倍から100倍にも増水するので氾濫が頻繁に生ずる。しかも黄河は甘粛・陝西・山西・内蒙古の地に堆積した黄土層を侵食して押し流すので,河南省の三門峡で1t当たり37kGの土砂を含み,毎年海に流出する土砂の総量も17億tにも達し,年平均50平方kmの新しい陸地を河口に形成する。この土砂は,河南省孟津を出て広大な平原を流れる下流域では,河床に堆積して天井河をつくりだし,河南省開封市では市街地より10m高いところを流れていく。したがって下流域の人々は,堅固な堤防を絶えず建設していかなければ生活の安全を保てない。『尚書』禹貢には,夏王朝の始祖である禹が洪水を鎮めた話が伝えられているが,実際に黄河の治水事業がすすめられたのは,鉄器が普及し巨大な土木工事が可能となった戦国時代以降だと思われる。春秋時代までの邑(都市的集落)は,洪水の危険を回避して河川から距離をおいた丘陵地に立地しているが,戦国時代以降につくられた新しい都市(県)は,黄河下流の広大な平野部にも位置しているのである。“暴れ黄龍”と呼ばれ,絶えず危害を加える黄河も,流域の黄土の土壌成分は農業生産にきわめて適している。リン・石灰などの有効成分に加え,直径0.1mm以下の細かい泥砂は孔隙性によって毛細管吸収力が高いため,表層の土を耕して浸透した土壌中の水分が上昇して蒸発するのを防げば,不足する水分を補うことができる。春の旱魃期には灌漑を行い,夏の洪水期には治水を行うことが,この地域の農業生産力の向上にとって欠かせない条件である。『史記』河渠書や『漢書』溝洫志には,秦・漢の統治者が治水灌漑につとめた話が伝えられている。前246年(秦の始皇帝1)に渭河の北に建造された鄭国渠は,4万頃(1頃は182アール)の地を灌漑して収穫量を増大させたので,天下の統一に成功したと記されている。漢代の歴代皇帝も,頻繁に決壊する黄河下流の堤防の修築につとめている。有史以来2,000年間に1,500回も堤防の決壊をおこし,河道も26回にわたって大きく変えている(宋代までは山東の丘陵を北流し,元・明・清代は南流し,現在はまた北流している)黄河の治水は,王朝の存亡をかけた重大な国家的任務といえよう。
![]()