●後ウマイヤ朝 こうウマイヤちょう
AD756
756〜1031 ウマイヤ朝が,750年アッバース朝によって倒されたのち,ウマイヤ家のアブド=アッラーフマン(731〜788)が,モロッコをへてイベリア半島に渡り,756年コルドバでアミールを宣言してから,1031年に滅亡するまで,24代(19人)の君主が在位したが,そのうち16人がウマイヤ家の出身であったので,これをもウマイヤ朝と呼び,マルワーン2世にいたるまでのそれと区別するため,イベリア半島に対してイスラーム教徒が呼ぶアンダルスを付けて,とくに「アンダルス=ウマイヤ朝」というが,日本の学界では多く「後ウマイヤ朝」と呼ぶ。【イベリア半島のイスラーム化】ウマイヤ朝第6代カリフ,ワリード1世(在位705〜715)のとき,征服が再開され,ベルベル人を主兵力とする7,000人のムスリム軍は,ターリク=ブン=ジァードの指揮下に711年西ゴート王国を滅ぼし,翌年出征してきたムーサーと功を競いつつ,アンダルスを征服した。このスペイン平定作戦は,わずか数年のうちに成功裡に終わり,アル=アンダルスの呼称をもつ,ウマイア朝の属州が生まれた。のち,イスラーム軍は732年のトゥール=ポワティエの戦いで,その北進を阻止されたが,ローヌ渓谷を攻略し,743年リヨンに達した。その後は上述したように,強大なアッバース朝の版図の西端に,独立する「後ウマイヤ朝」として,存続するにいたったのである。
【後ウマイヤ朝の推移】初代のアブド=アッラーフマン1世が,カリフと称せずに,アミールを宣言したのは,アッバース朝に比べて,その王朝の版図が狭く,またイスラーム国家は一人のカリフにより統治されねばならぬという伝統を重んじたからであるが,当初に種々の内紛に悩まされながらも,アミールは歴代ごとに,しだいに地歩を固め,第8代のアブド=アッラーフ3世(在位912〜961)の治世にいたって,カリフと称し,カスティリャ・アラゴンなどのキリスト教系諸国を圧倒して,領内の社会的統合をはかるとともに,専制国家体制を完成し,対外的にはファーティマ朝と,北アフリカ領有権を争った。その前後の時代は,まさに後ウマイヤ朝の黄金時代で,政治の安定に伴って,経済の発達・商工業の隆盛・学芸の進歩など,いずれも顕著であった。しかし11世紀の初め幼君ヒシャーム2世(在位976〜1009,1010〜13)をめぐる宮廷内の権力闘争や,国内諸勢力の反目に端を発した内戦へと発展した。この間ベルべル系のハンムード家出身の3人がカリフ位を継ぎ,さらにヒシャーム3世(在位1027〜31)が,ハンムード家によりコルドバから追放されるに及んで,後ウマイヤ朝は滅亡した。なお,スペインにおけるイスラーム王朝の残映は,1492年グラナダ陥落により,ナスル朝(1230〜1492)が滅亡するまでつづいた。
【後ウマイア朝の文化】〈コルドバはアンダルシアの花嫁。目をたのしませ,まなこ眩(くら)ます美しさと飾りは,すべてここにある〉と,アラブの史家は称えているが,この都は,後ウマイヤ朝の黄金時代においてはもちろん,その後期の政治的混乱時代にも,スペインの学術は非常な発達を遂げた。後ウマィヤ朝の文化は,絶えず東方の影響下にあり,多くの文化人が東方から移住し,イべリア半島のムスリムは東方に留学し,帰国後にその成果を発揚し,ヨーロッパ文化のなかに,サラセン文化の色彩を織り込んだ。アブド=アッラーフマン3世が設立したコルドバ大学は,当時の世界で最も著名であり,ここでアラビア語を学ぶヨーロッパ人の姿はけっして少なくはなく,ハカム2世がコルドバに図書館を建設してからは,コルドバは,バグダードやカイロとともに世界の文化の中軸都市となった。たとえば,法学ではマーリク派が,ザーヒル派やシャーフィイー派を駆逐し,歴史学の領域でも東方世界の方法が取り入れられ,活用されており,詩人では「類いなき頸飾り」の著者のイブン=アブド=ラッビフや,西方のムッタナッビーと呼ばれたイブン=ハーニーらを生んだ。一方建築美術の領域では,ウマイヤ朝様式を根底にすえ,アンダルス建築の開花への創成期にあたり,コルドバのメスキータの馬蹄形アーチにみられる西ゴート様式や,宮廷都市ザフラーに残るビザンツ風の装飾など,東西の諸様式が巧みに融合されたものなど注目される。
〔参考文献〕前嶋信次「イスラム文明の西漸」『岩波世界歴史8 中世2,西アジア世界』1969,岩波書店