●弘安の役 こうあんのえき
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フビライ=ハンの支配する蒙古(元)が2度にわたり日本に来襲した事件のうち,1回目を文永の役(1274),2回目を弘安の役(1281)と呼ぶ。文永の役に先だち,朝鮮半島の高麗を征圧した蒙古は,数回にわたり使者を派遣し日本の服属を要求。鎌倉幕府の執権北条時宗はこれを退け,文永の役が始まった。2万3,000の蒙古軍に幕府軍は苦戦したが,折からの暴風雨により敵船は敗退。その後も幕府はフビライの野心に備え,御家人・非御家人を交替で九州沿岸の警護に当たらせた。つづく弘安の役に,蒙古は再び前回にまさる4万の大軍を率いて日本を襲ったが,このときも暴風雨のため上陸できないままに敗退し,日本は奇跡的な勝利を治めることができた。しかし,戦後,多大な経済的負担を強いられた御家人に不満が残り,庶子の惣領からの独立などによって,御家人体制に変化のきざしが現れることになっていった。
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