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●小石川養生所 こいしかわようじょうじょ

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 徳川家中興の主・徳川吉宗(1684〜1751,貞享1〜宝暦1)は,1716年(享保1)8月,8代将軍に就任したが,鋭意,政治の改革に努めるとともに,新しく「施薬院」をつくり,老人や貧民の病気にかかって,医師を頼むカネのない者を救いたいと考えた。ちょうどそのころ,江戸・小石川の医師に小川笙船という人がいた。小川は幕府に意見書を差し出して,時政十九条を述べるうちに,〈施薬院を設置すべし〉という名提案をした。江戸幕府はこれを採用し,1722年(享保7),施薬局を小石川薬園中に建設し,その年12月に「施薬園小石川養生所」と名づけた。この小石川養生所は,町奉行が支配し,与力2名と同心6名を配置し,取り締まり以下,いっさいのことを取り扱わさせ,小川笙船・林良適・岡丈庵・木下道圓・八尾伴庵・堀長慶の各医師に医務を主宰させた。その病室は,初めは40人づめだったが,翌1723年に増築して100人づめとし,1729年に150人,1733年には117人づめに改めた。その医員はたいてい小石川付近に住んでいた寄合医師と小普請医師から任命され,御番医師または藩医や町医から任ぜられたものもあった。初めは本道(漢方医の用語で「内科」)と,外科と眼科をあわせて,8〜9名の医員を置いたが,1733年以降は5名に減らした。小石川養成所の経費は,初めは年額700両だったが,のちには増額して840両とされ,付属町屋敷の借料(年額750両の収入)をもってあてていた。宝暦(1751〜63)以降は,付属町屋敷の地料を官庫へ収納し,別に養生所の経費を支出することとした。小石川養生所は,賢君といわれた徳川吉宗の優れた功績の一つといえる。