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●呉(三国) ご

アジア 中華人民共和国 AD223 魏・呉・蜀

 223〜280 中国呉郡富春県(浙江省富陽県)出身の豪族孫氏が江南にたてた王朝。孫堅とその子の孫策が創業し,あとを受けて孫策の弟孫権が政権を確立した。孫堅は後漢末の群雄の一人で,黄巾の乱や会稽の許昌・長沙の区星らの乱を平定して武勇を知られた。190年(初平1),董卓討伐の義兵をあげ,洛陽を奪回して漢の宗廟を修復した。終始袁術の座下として転戦し191年敗死した。子の孫策も袁術の部将で揚子江下流地域に進出したが,196年(建安1),袁術が帝号を称したのを機に自立し,江東に版図を確保した。曹操が袁紹と対戦した隙をついて許都を襲い献帝を迎えようとしたが,功業なかばで故呉郡太守許貢の客に暗殺された。後事を託された弟の孫権は,張昭周瑜らの旧臣の助けを得て各地の土豪や山谷中の蛮族山越を征服しながら政治基盤を固め,208年(建安13)の赤壁の戦いでは,劉備と同盟して,曹操を破り,自立の基礎を固めた。その後,呉は荊州の争奪をめぐって劉備と対立し,222年には荊州の守将関羽のための復讐戦をいどむ劉備を破り荊州を確保した。この間,呉は魏と結び,220年(黄初1)曹丕が帝位につくと魏の文帝より呉王に封ぜられた。しかし翌222年には自ら元号をたてて黄武と称した。さらに223年(黄武2)蜀との和議がなり,魏と蜀との対立が激化してくると,呉は蜀と連携して魏に当たった。かくして孫権は229年(黄龍1),武昌で帝位につき,呉国と称し,建業に都した。これより,孫権すなわち呉の大帝は江南経略を進め,原住民の山越や武陵蛮などを討って湖南・福建・広東地方を開発し,北ベトナム方面まで手をのばした。その領土は揚州・荊州・広州・交州の4州にひろがり,揚子江以南の全地域に及んだ。

 呉の政権はもともと華北から流亡した名士と江南の土着豪族の連合体で,これら南北両系の士人が,孫権をかしらとして任侠的主従関係で結びついていた。しかるに呉王朝成立後の241年(赤烏4),二宮事件がおこり,この主従関係に亀裂が生じた。孫登の死によって太子となった孫和と魯王の孫覇との対立が,呉の官界を二分したのである。この紛争は250年に落着したが,孫権の没後にも,旧太子派の諸葛恪と魯王派の孫峻の対立がつづき,孫亮・孫休のあとを継いだ烏程公孫皓は故太子孫和の子である。呉王朝では天子は科法と校事制度によって臣下を統御した。科とは律の細則であるが,実定法として機能し,中書の属官である校事は大臣以下の過失を報告し天子の耳目の役割を果たした。237年(嘉禾6)ごろ校事呂壱が科法を武器に大臣諸将を弾圧し,専横をきわめたことが有名であるが,校事制度は呉一代を通じて行われた。その治世が呉国の歴史の3分の1を占めた最後の皇帝孫皓は暴君庸主と評されている。このころには呉の中核であった名族大臣が実力を蓄え,内紛が絶えなかったので,孫皓は外戚や側近を信任して威権の回復に努力したが,かえって寵臣の専横・奢侈が甚しくなった。広法峻刑・過重な賦税・奸吏の横行,さらにほしいままな土木工事によって人民は極度に疲弊したといわれる。大臣の争いと民政の乱れでまとまりを失った呉は,280年(天紀4),西晋の大軍の前に土崩瓦解し,孫皓は晋に降った。こうして呉王朝は4代52年で滅亡したが『呉志』には滅亡時の呉の戸は52万3,000,吏3万2,000,兵23万,男女230万を数えたと記している。呉の時代は江南開発が本格化した時期として重要である。江南の開発に伴なって呉会の豪族勢力が伸長し,呉郡の顧氏・陸氏・朱氏・張氏や会稽の虞氏・魏氏・孔氏・賀氏などの大姓が呉代の代表的名族として成長していた。

〔参考文献〕宮川尚志『六朝史研究,政治・社会篇』1956,日本学術振興会

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