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●言論・出版の自由 げんろん・しゅっぱんのじゆう

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憲法第21条1項で保障されている「言論、出版その他一切の表現の自由」は通常言論の自由、あるいはより広く表現の自由と総称される。これは、国家の干渉を受けることなく、自己の思想・主張を自己の自由な判断により表明したり、あるいは事実に関する報道を、広く多くの人々に伝達する自由のことである。近代以前はこの自由についての保障はなく、西欧の市民革命以後、個人の精神的権利として位置づけられ、個人の諸権利のうちで最も重要なものとして保障することが求められている。さらに、個人的自由というだけでなく、社会全体の利益のために認められた社会的権利として法的に保障されている。

 1789年のフランスの「人および市民の権利宣言」の第11条は〈思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利のひとつである。したがってすべて市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。ただし、法律によって規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない〉と規定した。また「1848年11月4日フランス共和国憲法」の第8条は〈市民は、団結し、平和的にかつ武装することなく集会し、請願し、出版の方法その他によってその思想を表明する権利を有する。これらの権利の行使は、他人の権利および自由ならびに公共の安全のみを限界とする。出版は、いずれの場合にも、検閲にしたがわせることができない〉と言論・出版の自由を保障した。

 一方、1889年(明治22)に発布された大日本帝国憲法の第29条は、〈日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス〉と〈法律ノ範囲内〉すなわち当時施行されていた「出版法」「新聞紙法」などの言論取締り規定のもとでの“自由”であった。これは、フランス(1881年、「出版の自由に関する法律」)あるいはアメリカ(1791年制定の合衆国憲法修正第1条〈連邦議会は…言論および出版の自由を制限する…法律を制定することはできない〉)に比べ格段の差があった。

 今日、表現手段として新聞・雑誌・書籍などの印刷メディア、テレビ・ラジオの放送メディア、さらに映画・演劇・音楽・絵画などがあり、これらを思いどおりに使って、自己の言いたいことを表現する自由は、思想・良心の自由といった内面的精神活動の自由とともに重要な精神的自由と考えられている。さらに表現することがいくら自由であっても、それを受け取る側の読んだり、見たり、聴いたりする自由がなければ無意味であるので、言論・出版の自由(表現の自由)のなかに、受け手側の受け取る自由も当然保障されなければならない。表現の自由は、思想・良心の自由といった内面の精神活動の自由と異なり、本来的に社会的な性格を有するものであるために、他の社会的利益や他人の人権に関連して制約を受ける。もちろん、公共の福祉や国家的必要性などを名目とした公権力による干渉が必要以上にこの自由を制限しないように、他の自由権との衝突の範囲に限定すべきであり、また抽象的な用語によってではなく、他の権利・自由あるいはその他の具体的に比較衡量できる社会的価値との対比によって考えられるべきである。表現の自由を規制する法律の規定は、とくに明確でなければならない。なぜならば、どこまでの表現が許されるのか、どこからが規制対象となるのかを判断しうる規定でなければ、人々は本来正当である表現までも自己規制してしまい、その結果、自由な意見交換や討論が実質的に阻害されるおそれがあるからである。1910年代から20年代にかけ、アメリカの連邦最高裁の判事であったホームズ(1841〜1935)とブランダイズ(1856〜1941)は、言論や集会を取り締まり、刑罰を科する法律の適用について、合衆国憲法修正第1条の言論の自由の保障に反することなく、人をその表現のゆえに処罰できるのは、その具体的な表現によって政府権力が正当に防止しうる実体的害悪がもたらされる明白かつ現在の危険がある場合に限る、という原則を打ち立てた。この原則を「明白かつ現在の危険の原則」という。しかし、この原則の短所として、これは法律そのものの合憲性の判断基準となるものではなく、もっぱら意見の表明を罰しうるのかどうかの判定基準たるにとどまり、この原則の適用範囲は限定されたものであるとの見解がある。

 言論・出版の自由と衝突する人権として、人格権がある。名誉権・プライバシーなどの人権である。事実を指摘して、公然と、かつ故意に他人の社会的評価を低下させるような表現行為は、刑法230条によって名誉毀損罪として処罰され、また故意あるいは過失によるそのような行為は民法709条に規定される不法行為にあたる。名誉を毀損したとしても、それが公共の利害に関する事実にかかわり、もっぱら公益をはかる目的で行われた場合は、その事実が真実であることが証明されれば不法行為にも名誉毀損にもならない。名誉を毀損した者に対し、被害者は損害賠償や謝罪広告の掲載を請求できる。プライバシーの権利は、わが国では第二次世界大戦後、言論の自由が保障され、個人の私事を暴露するマス=メディアの横行につれて議論が高まったものである。一般化したのは、三島由紀夫の小説をめぐって提起された『宴のあと』訴訟(東京地裁1964年(昭和39)判決)によってであった。この判決はプライバシーの権利の法的根拠として憲法第13条(個人の尊厳)などをあげ、〈私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利〉とこれを位置づけた。この権利は上記のブランダイスらが、1890年、アメリカの法律雑誌に「プライバシーへの権利」と題する論文を発表し、権利として提唱されたのが始まりである。当初、「ひとりにしておいてもらう権利」とされていたが、コンピュータなどによる情報の蓄積・処理の高度化に伴い、「自己に関する情報の流れをコントロールする個人の権利」とする見解がでてきた。

 報道の自由と人権の問題をめぐって、近年になり、とくに犯罪報道について、裁判の訴訟過程や起訴よりも逮捕・取調段階が大きく実名で報道されるために、被疑者が、判決を待たずに“刑”の執行を受けるという、いわば報道による裁判の先取りを疑問視する声が多くなってきている。わいせつ文書取締まり規定である刑法第175条は、わいせつ文書・図画等を頒布したり販売したり公然陳列したり、あるいは販売する目的で所持する者を、懲役・罰金で処罰の対象としているのは、表現の自由に対する特殊な干渉である。市民の知る権利のなかにマス=メディアや国家・地方自治体のもつ情報へ接近する権利(アクセス権)があり、後者は情報公開制度として検討され、いくつかの地方自治体では制度化され実施されている。国民主権原理にもとづく政治体制としての民主主義は、公共的な課題を討論する自由な広場を前提にしている。この討論の場は、主権者である国民が話す自由だけでなく、知る自由(聴く・見る・読む)、反論する自由が保障されてはじめて成立し、国民の政治決定過程参加による民主主義を実現するものである。

 J.S.ミルが『自由論』のなかで〈仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない〉と提言しているように、他者の意見を尊重するという基本的な態度を忘れてはならない。言論の自由と他の社会的価値との調整という課題の解決とともに、高度な情報技術の開発が急速に進展しているなかで、われわれは情報環境のなかで、いかにしてその主体者たりうるのかを模索しなければならない。

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