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●元禄文化 げんろくぶんか

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 広義には元禄時代を中心とする江戸時代前半期の文化。五代将軍綱吉在職中の1680年(延宝8)〜1709年(宝永6)の文化をも指し,狭義には1688年(元禄1)〜1703年(元禄6)の文化を指していう。大坂は東廻り・西廻り航路の開発により,全国物産の集散地として繁栄し,京都は優れた伝統的文化と技術をもつ商工業の中心として,江戸時代前半期の経済界の中心的地位を占めたが,元禄文化はまさに興隆期の上方町人による都市文化であった。それは単に京都・大坂の町人層だけでなく,生産力の向上と商品流通の発達を基礎とする大坂周辺の在郷町,江戸をはじめとする城下町,宿場町町人と豪農層の文化的欲求の高まりに支えられていた。したがって桃山時代町衆の伝統を背景とする寛永期や寛文期との性格の相違をみようとする傾向も強いが,幕藩体制の確立に努める武士の精神と,それに抵抗しつつも現実の人生を肯定していこうとする町人の精神が,幕政が武断主義より文治主義への傾向を強めたこととあいまって,学問・思想・文芸・美術等に反映した,きわめて日本的な文化であったといえる。上述の元禄文化の性格を踏まえて,さらにいくつかの特色を指摘しつつ,その諸相をあげる。

[1]封建教学としての朱子学の定立。京都相国寺の還俗僧藤原惺窩の門人林羅山徳川家康に,同じく那波活所が紀伊徳川,堀杏庵が尾張徳川,松永尺五が加賀前田に仕えたように,その門流は将軍家をはじめ御三家・有力大名に仕え,その文教政策に関与し人材の育成に当たった。古代以来政治・社会に強い影響力をもった仏教はその力を失い,朱子学政治思想による幕藩制支配の永久化がはかられた。[2]種々の新学問の興隆。朱子学派の発展に関連して,これを批判する中江藤樹の陽明学,山鹿素行・伊藤仁斎の古学,荻生徂徠の古文辞学等の儒教諸派,歴史学でも羅山父子の『本朝通鑑』,水戸の『大日本史』のほか新井白石の『読史余論』『古史通』,素行の中朝観が表れ,国文学では北村季吟が古典註釈をまとめ,契沖は方法的にも古典研究に画期的な成果をあげた(国学の発生)。貝原益軒稲生若水の本草学,宮崎安貞の農学,名古屋玄医らの古医方,関孝和らの和算渋川春海の暦学,西川如見や白石による地理学知識(洋学の先駆)等,多くの新学問の興隆は未曽有のことであった。[3]実証的合理的精神の昂揚。朱子学の窮理精神を原典遡及する古学派の研究態度は,諸学の方法的基礎を提供した。古医方の親試実験の立場は山脇東洋の『蔵志』を生み,益軒の『大和本草』,若水の『庶物類纂』は李時珍の祖述を超えた合理的実証的成果であった。契沖の古典研究も秘伝を否定して,自由な実証的合理的研究をめざした。白石の歴史・語学の研究,安貞の『農業全書』,孝和の筆算もその例といえる。[4]人間性の主張。人間本来の性情にも目が向けられ,井原西鶴の浮世草子・近松門左衛門の戯曲・人形浄瑠璃・歌舞伎の盛行・談林派や松尾芭蕉の俳諧・契沖の主情主義・仁斎の仁愛の主張も階級制を超えた普遍性をもつ。[5]洗練された装飾美の顕現。豪華な桃山文化の伝統を継ぎ,経済力をもった町人層の欲求を反映して,本阿弥光悦より俵屋宗達尾形光琳から乾山にいたる琳派の華麗な装飾美・宮崎友禅の友禅染・野々村仁清による色絵京焼菱川師宣による浮世絵版画の創始等,当時の好尚に投じて伝統美の近世化を実現した。以上にあげた多くは生活文化にいたるまで,浪人を含む市民社会の所産であり,都市の消費生活を反映するものであった。武士・町人層の動向を受けて,市井に住む浪人のなかから,多くの文化推進者の出現したことも注目すべきであろう。芭蕉は元伊賀上野藩士,近松・契沖・白石・藤樹らも浪人であった。この時期の文化は京都・大坂を中心とする上方文化の面が強いが,江戸の発展につれ上方より江戸に下って活躍する者が増加し,江戸も独自の文化を形成していくのである。

〔参考文献〕原田伴彦「元禄文化」岩波講座『日本歴史』近世2,1963,岩波書店

大石慎三郎『元禄時代』1970,岩波書店