●元禄時代 げんろくじだい
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江戸中期の元禄年間(1688〜1704)前後の徳川五代将軍綱吉治世期をいう。政治もほぼ安定したため文治政治が広く行われた。学問では朱子学を中心とした儒学がとくに著しかった。産業の面でも発展があり都市部を中心として町人らの生活は大いに向上した。とくに豪商らの経済的発展を基盤に上方といわれて京坂方面に文化の展開がみられた。綱吉はその側近らを重用し,とくに柳沢吉保は重んじられいわゆる側用人政治を行った。綱吉が将軍になったときにはまだ財政的にゆとりがあったが,当代には社寺の建築や修理がしばしば行われたので,幕府の保有金も少なくなり財政上苦境にたたされた。そのため,勘定吟味役から勘定奉行となった荻原重秀の言をいれて貨幣の質を落としたいわゆる元禄の改鋳を行った。これによって約500万両にのぼる出目を得たといわれるが,発行された貨幣が悪貨であったため物価が騰貴した。この元禄の貨幣改鋳を批判して行われたのが新井白石による正徳の貨幣改鋳であったが,白石は貨幣の質の改良に努力したが,発行量が減少したので不況を招く結果になった。最近の研究では,元禄の改鋳のほうが正徳のそれよりも適切な経済政策であったとみる見解が有力になっている。ところで,綱吉は綱紀を正すとともに学問,わけても儒学を重んじ自らも講義を行っている。林家の私塾と孔子廟を湯島に移すなどしてその保護につとめたが,彼の学問への関心は儒学だけでなく,国文学者北村季吟を召し抱えているほどである。1687年(貞亨4)に出された生類憐みの令は知られるように天下の悪法であったが,綱吉の母桂昌院の言によったとみられている。護国寺の建立なども桂昌院が極度に仏教を尊重したことと関係が深いが,生類憐みの令は綱吉が没するまで続いている。なぜそこまで続いたのかこの点もっと究明されなくてはならないと思うが,元禄時代に大きく開花した文化を元禄文化といっている。この点についてみてみよう。【元禄文化】当時代の文化を一般には元禄文化というが,おもに上方を中心としたものであった。のちの文化・文政期に展開した文化を一般に化政文化と呼び,それがおもに江戸を中心とするものであったのと関連づけて取り上げられている。そして元禄期には井原西鶴や近松門左衛門さらには松尾芭蕉といった独創的な人材が輩出したとされている。けれども近年の研究によると,化政期の文化は従来言われていたようにこれら元禄文化の模倣ではなく,独自のものがあったとして再評価されるようになっている。これがもとより元禄文化を低く評価することにはならないが,両者の対比は客観的に行れねばならない。この時期の出版は『見聞集』や『名所記』のような実用とか旅行案内についてのものが多くみられた。年中行事として七夕祭りや月見・節句が庶民の生活に定着するようになった。さらに生活文化についてみると食事が1日2回から3回になったのもほぼこのころのことであったし,衣生活で元禄模様が普及したのも町人らが武士を意識した表れであった。伝統芸術の面で家元が普及した。そのほかの面では,浄瑠璃や歌舞伎が盛行しとくに歌舞伎では江戸に団十郎の荒事,そして大坂に藤十郎の和事が演じられ,それぞれ名儀の名をほしいままにした。美術でも風俗画に特徴がみられ,市井の風俗や生活が多く描かれた。ところで元禄時代といえば,かの忠臣蔵の件が思い出される。太平な世なるがゆえにおこったともいえるあの事件は,どのように位置づけたらよいであろうか。浪士らの処分をめぐり大きく意見が二分されたがこれは幕府の苦境を示すものであった。
〔参考文献〕大石慎三郎『元禄時代』岩波書店
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