●権利請願 けんりせいがん
ヨーロッパ 英国 AD1628 前期スチュアート朝
1628年イギリス議会が,国王チャールズ一世との対立抗争のなかで,国王に提出した請願であるが,同年6月国王の承認を獲得し法律としての効力をもつようになった文書。「マグナ=カルタ」「権利章典」と並んでイギリスの最も重要な憲法的文書の一つである。正式の名を「臣民の種々なる権利および自由にかんして,陛下に捧呈され,それにたいして陛下が議会全体に勅答を給うた請願」という。【成立】チャールズ一世は即位後直ちに,バッキンガム公の助言をいれて,積極的対外政策を行い,スペインのカディスに遠征し(1625),あるいはフランスの内乱に干渉してラ=ロシェール付近のレー島(Rhe)の攻略を行った(1627)。そのあいだ逼迫する財政をまかなうために,1625年および翌年に議会を召集して訴えたが,議会はいずれもそれには耳を傾けず,むしろバッキンガム公の責任を追及し,国王をして短期間で解散せざるをえなくさせた。国王は議会を通じて資金を得ることをやめ,強制公債や献上金の強要などに頼っていった。またこれらの出兵によって住民が彼らの家に軍人の宿泊を強制されたり,国内でも軍法の認める簡単な手続きと順序によって裁判が行われたりすることがおこってきた。チャールズの第三議会はレー島遠征の敗北後の1628年3月に開かれたが,そこには強制公債を拒否したかどで投獄された経験をもつ27人もが議席を得ていた。議会は恣意的な課税や投獄は基本法違反であるとして国王を攻撃した。ウェントワース(のちのストラットフォード伯)・エリオット・ピム・ハムデンらが先頭に立って闘った。彼らは初め古来からの“国王の臣民の権利と自由”を確認する法案の提出を企てたが,国王がそれを認めないことが明らかになったので,クックの主張により請願の形式をとることにした。こうしてできたのがこの権利請願の原案であるが,それは両院を通過した上,国王に提出された。国王は承認の回避につとめたが,両院とも強硬な態度を維持したためついに屈し,これを承認した。
【内容】まず「マグナ=カルタ」その他の法律によって基準が定められているにもかかわらず,租税などの負担金・自由人の逮捕・軍人の民泊・軍法裁判などに関し,最近それらの基準がいかに無視されているかが述べられている。ついで次のような要旨の嘆願がある。すなわち[1]何人も議会の同意なしに贈与・公債・献上金・租税その他同種の金銭上の負担を強制されないこと。また何人もこれを拒否したために出頭を求められたりその他の方法で苦痛を加えられたりすることのないこと。[2]自由人は理由を示されずに逮捕または投獄されることのないこと。[3]住民はその意志に反して陸海軍人を彼らの家に宿泊させることを強制されないこと。[4]軍法による裁判を命じる授権状は撤回され無効とされること。
【意義】「権利請願」を貫く姿勢は,先例と慣習によって確立されてきた国民の権利と自由を,権力の侵害から守るということであって,政治構造の変革を求めたものとはいえない。しかし国王大権といえども議会の定めた法に制約されるという原則が樹立したことは,主権が国民の手に移る第一歩として高く評価されなければならない。ところが国王は「権利請願」を忠実に守ろうとしたとはいえない。国王は議会の承認なしにトン税・ポンド税(輸出入商品に課せられる税金)を課した。庶民院はそれに対し,国王がカトリシズムの導入をはかっている点とあわせて,1629年3月に抗議文をつきつけている。憤激した国王は2日後に議会を解散し,エリオットら指導的人物を投獄する一方,11年間の無議会専制政治を行い,清教徒革命の原因をつくった。
〔参考文献〕高木八尺他編『人権宣言集』1957,岩波書店
浜林正夫『増補版イギリス市民革命史』1971,未来社