●建武中興 けんむのちゅうこう
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建武元年(1334)から同3年まで後醍醐天皇により行われた復古政治とその挫折過程を含む。元弘の変が失敗し隠岐に配流された天皇が脱出入京しえたのは,反北条氏の気運から激しく動いた諸国武士層の,よりましな政権への願望に主因がある。足利尊氏・新田義貞らの有力御家人にも背かれては支えきれず鎌倉募府は滅んだ。孝臣は少なめゆえに光彩を放ち後世これを賛仰したが,現実はおおらかに打算が噴出しそれが数にも勝った。こうした現実感覚をきたえるのに鎌倉時代140年はけっして短くはなかったのである。翌年,天皇は幕府の擁立した光厳天皇を廃して自統の王朝確立に向かう。建武の年号は王道政治の理想を謳うべく,後漢光武帝の王奔打倒の故事を引いている。宋学の大義名分論による理念は固くとも現実の施策は一に現実を見誤り,稼動すれど一方に傾き,すべてに調和不十分であった。記録所・武者所・国司守護の併置,内裏造営皆しかり。雑訴決断所の不透明,渋滞は,新政権最大の“事,志と異なる”展開を招く。所領に対する個別安堵の法令をみても,御成敗式目で規定され一般化していた20年間,当知行安堵法の否定であり,国中すべて王土に非ざるはなし,の姿勢は時代錯誤以外の何ものでもない。恩賞の不公平はこれと軌を一にする。武家側からはよりましでない政権に違いなかった。二条河原落書にある,〈本領ハナルル訴訟人〉の激増は社会の基層を揺るがし,〈一座揃ワヌ〉政情がついに〈公武水火の争い(梅松論)〉にもち込まれてゆく。情熱と信念がこれほど現実と衝突し,空回りした政治もめずらしい。新政の是非は武家間の対立を歴然とさせ,新政と袂を分かった武士を結集した尊氏独自の行動が,ついに天皇を京都から逐う結果となるのである。中興は近世の評語であって当時は“公家一統”と呼ばれていた。事の挫折はよって明白であり,以後,両朝の対抗はあるにせよ,北条から足利に頭を代えた幕府政治が展開してゆくのである。
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