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●権門体制 けんもんたいせい

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 複数以上の権門勢家といわれるものが,国家機構の一部を握りつつ,支配連合をつくっていることをさす。

 古代国家は古代天皇制を中心とする支配機構であった。とくに律令国家体制として,中央−地方を一貫した国家行政機構がつくられ,官僚機構も整序されている。ところが9〜10世紀ごろになると,このような統一行政機構はかなり地域ごとに分散させられ,解体している。地方の在方官人層,とくに郡司の武士化がすすみ,それが事実上地方行政を握るにいたって,国司?住もすすんだ。しかもその郡司のつながりをもつ中央貴族たちが貴重ゆえに棟梁となった。

 武士は奈良時代から存在したが,その多くは私兵として発生したもので,国家が育成した公的性格をもつ軍事担当者ではない。律令制国家公地公民制の上にたつもので,私地私民を承認しないし私兵も認めない。しかるにそうしたものが発生し,しかも中央の権力と結びついていることを思うと,そのころから律令制国家体制外の権力が成立していたとみることができる。健児制は兵士に代わる公兵であった。これは軍団制が弛緩して部外官の進出に対応するものである。

 そうしたなかで,権貴の家とのつながりが出てくる。武門となった貴族的要素にも,皇族系貴族,藤原氏その他の貴族がある。そのなかには,さまざまな源氏・平氏が存在した。権門体制は,院政期から応仁・文明の乱までの間の国家体制に対する呼称である。

 これは黒国俊雄によって主唱され,公家・武家ともども封建領主階級として相補関係にありつつ,国家権力を握っているとの考え方による。古代官僚制的なものを,封建的な武家体制とのブロック権力と考える者もいるが,いずれにせよ封建アナーキーの二形態と規定しようとする者が多い。

 当時の権門と呼ばれた荘園領主は,どれ一つをとっても国家権力を専断することはできなかった。公家は日常的行政面を担当し,武家は軍事面を担い,寺社は国家の側面を握って相補関係の上に国家権力を構成していると考えさせている。しかし,室町政権に対して黒田は,王権が明白に将軍を手中に帰したと考えている。それに対し,果たして今日の国家理解で,中世国家の存在が認められるかという考え方もあり,中世無国家論とか多元的国家観の存立の余地をかなり残している。

 権門は家政体制をつくりあげ,荘園の不輸入権を確立させたため,中央国家権力が貫徹できず,権門の支配下にある個々の荘園に対し,権門が地頭を補佐しても,進退権さえも持ちえない結果,下地支配権さえも持っていない。したがって院政も一権門としての性格をもち,権門を超越した力さえ持っている。その意味で有力権門の一つといってよい。少数の権門勢家が群れ,貴族をおさえている。したがって,院・有力貴族・大社寺を本所とする領家的存在が,少数有力権門として力を発揮し,国家権力を担っている。

 ところが,荘園は下地中分(したぢちゅうぶん)・半済を通じて守護領国制,そしてそれをつき崩す国人体制によって小権門も全部崩れ,戦国大名による一円知行化で権門体制は,下剋上によって壊されることによってなくなっていく,戦国アナーキーも天下一統,天下布武の統一者の出現によって完全に地起しされることによって,権門体制はもはや統合されることになってしまったのである。社寺権力のとくに寺院勢力は壊され,そのもつ無縁の寄りどころもアジールたりえなくなって,権門の寄りどころでもなくなっていった。