●建文帝 けんぶんてい
アジア 中華人民共和国 AD1383 明
1383〜1402(在位1398〜1402,洪武31〜建文4)姓名はシュインブン※注1※。南明の福王より譲皇帝の諡と恵宗の廟号を,清朝の乾隆帝より恭閔−恵皇帝の諡を加えられた。太祖−朱元璋の長子である懿文太子標の第二子として生まれ,1392年(洪武25),皇太子の父が病死すると,混乱を恐れる翰林院学士劉三吾らの上奏もあって皇太孫となった。16歳で即位したが,当時の諸王のなかには強大な勢力を有する者もおり,その多くが建文帝の尊属であった。建文帝は太常卿黄子澄・兵部尚書斉泰・翰林院侍講学士方孝孺らの輔政を受け,勢力基盤の江南地方の過重な税賦を軽減して人心収攬につとめる一方で,諸王削藩政策を断行した。しかし,1399年(建文1)7月,靖難の変(燕王朱棣のちの成祖−永楽帝)の挙兵にあい,京師を攻略されて自殺した。あるいは僧形に身を代えて出亡したとも伝えられる。永楽帝により建文一代は抹消され,建文の年号が復活したのは1595年(万暦23)であった。
![]()