●ケンブリッジ大学 ケンブリッジだいがく
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オックスフォード大学と並ぶイギリスの古い大学。前者と同様にカレッジ制をとる。ロンドンの北方約90kmに位置する同名の大学都市に所在し,ケム川沿いにある。【設立】大学の設立は,オックスフォードより遅れて13世紀初め,同大学の学生が多数移動してきたことに端を発する。初めカレッジはなかったが,早くから学生の共同生活が行われていた。1284年に最初のカレッジとしてピーター=ハウスが設置される(オックスフォードのマートン=カレッジを模したもの)。14世紀には新カレッジが次々と建てられ,クレア(1326)・ペムブルック(1347)・トリニティ=ホール(1350)・コルプス=クリスティ(1352)などが姿を現す。15世紀に入ると,キングズ(1441)・クィーンズ(1448)・セント=キャザリンズ(1473)・ジーサス(1496)の設立がみられた。1504年にジョン=フィッシャーが総長(チャンセラー)になり大学の発展に努力した。彼の関心はルネサンスの新しい学問にあったが,エラスムスを本学に招き,初めてギリシア語を講義させた。また大学内に活版印刷所を設けている。1547年にヘンリ8世によってトリニティが開かれ,これが本学最大のカレッジとなる。クランマー・ティンダル・ラティマーらの宗教改革者は本学の出身であり,国王首長令の施行はここでも強制されたが,エリザベス1世の治世が始まると清教主義の本拠となり,神学教授トマス=カートライトの言動が学内外の注目を受けた。だがそのために大学の管理機構は強化された。17世紀の中ごろにおける内乱の始まりは,オックスフォード大学の場合と同様に本学を国王側の味方とした(市の方は議会側)。議会側の勝利が決まると多くの構成員が追放を余儀なくされたが,王政復古とともに帰還し,以後の大学は国教会との一体関係に入る。思想的動きとしては,17世紀の半ばから後期にかけてケンブリッジ=プラトン学派の主張が目立ち,彼らはキリスト教的倫理とルネサンス=ヒューマニズムとの調和,宗教と新しい科学との,あるいは信仰と理性との妥協をはかったとされている。また1669年にニュートンが数学教授となって以後30年間その地位にとどまったので,本学の数学研究は他を圧するにいたる。しかし体制内の大学として固定されたことは,しだいにその空気を沈滞させるようになり,18世紀には伝統の重みのもとにあえぐのが大学の姿となった。
【改革】19世紀に入ると緩漫な改革が進行する。1870年代に入り信仰のいかんをみるテストを廃止,1882年には研究員(フェロー)の結婚が許された。1851年に自然科学,1859年に法学,1870年に歴史のそれぞれの専門学部が設置されたことも見逃すべきでない。このようにして優秀な学者の輩出する条件が整い,とくに実験物理学での卓越した地位が確立された。1856年にはスクールで行われる地方試験制を導入,また1873年には婦女子のためのカレッジ(ガートン)が設置されている(現在は3)。学生数の増加も著しく,1862年の1,500人余が1914年には3,700人近くに達している。第一次世界大戦が学生数の減少と研究条件の悪化をもたらしたことは間違いないが,戦後は教育・研究両面の拡大,とくに自然科学系部門の充実のために,国家からの援助を受け入れざるを得なくなっている。だが同時に優れた学者が続々と出ており,経済学者のケーンズ,歴史家のトレヴェリアンはとりわけ有名である。1921年には婦人にも教授・講師になる権利が付与された。第二次世界大戦後は全学生数が7,000人にのぼる。また1948年には婦女子に対して男子とまったく同等の待遇が与えられることとなった。今日の専門学部は古典学・建築および芸術史・神学・近代および中世言語・歴史・法律・工学・数学・医学の9学部である。