●遣唐使 けんとうし
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奈良・平安時代にわたって、唐に派遣された使節をいう。『日本書紀』では西海使(にしのみちのつかい・もろこしのつかい)と記し、『万葉集』では入唐使と記している。唐では、日本朝貢使と呼んでいる。日本の遣唐使は630年(舒明2)8月に〈大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日ヲ以テ大唐ニ遣ハス〉と『日本書紀』に見えるのをもって最初とする。唐側の『旧唐書』倭国日本伝に〈貞観五年使ヲ遣ハシテ方物ヲ献ズ〉とあるのがそれである。遣隋使派遣によって国の内外に目を開くに至った日本は、半島における白村江の敗戦を契機に唐との国交を回復して、国内の制度の整備・先進文化の摂取を図るために、留学生・学問僧を含む遣唐使を派遣するようになった。以来260年間奈良朝から平安朝初期にかけて、遣唐使節の任命は18回に及んだ。そのうち第12次・第13次・第18次は中止となったので、実際は15回になる。遣唐使一行は大使・副使・判官・録事などから成り、初期のころは船は1、2隻で、乗組員も120人ほどであった。中期以後は4隻となり、乗組員も500人から600人を超えるほどになった。万葉集ではこれを四つの舶と呼んで、遣唐使関係の歌二十余首が載っている。〈四つの船はや帰り来と白香つけ吾が裳の裾に鎮ひて待たむ〉という第10次遣唐大使藤原清河に贈られた孝謙女帝の歌によっても知られる。渡唐の航路は、初期は朝鮮半島の海岸沿いに北上するいわゆる北路を取った。新羅との国交が悪化した700年ごろからは琉球列島沿いに南下して東シナ海を渡る南島路を取り、後には五島列島から出航する南路も用いた。遣唐使一行のなかでは、第3次遣唐押使高向玄理、第7次遣唐執節使粟田真人・山上憶良、第8次の留学生阿部仲麻呂・吉備真備・学問僧ゲンボウ※注1※、第10次遣唐使使藤原清河・副使大伴古麻呂、後期には最澄・空海あるいは橘逸勢などの名が知られている。初期のころの遣唐使節や留学生・学問僧たちは、進取の気性に富んで国家新建設の理想をめざし、先進文化への憧れに航海の困苦や生命の危険をも顧みず、渡唐への情熱に燃えていた。しかし後半期以後になると、内外の事情とも相まって渡唐の目的ももはや一様ではなく、渡唐者の情熱もしだいに失われていった。大唐の栄華も、安史の乱やその後の黄巣の乱等によって昔日の面影はなく、衰頽の一路にあった。唐文化はいつか日本に吸収消化されて、今や日本独自の文化が形成されつつある。遣唐使本来の目的・任務は、ようやく終わった感がある。かくして894年(寛平6)第18次遣唐使の大使に任命された菅原道真が遣唐使の廃止を建言した上奏文を契機に、260年間におよんだ遣唐使はここに終わりを告げた。上奏文は、当時の大唐の凋弊を述べるとともに、〈度々ノ使等或ハ海ヲ渡リテ命堪ヘザル者有リ、或ハ賊ニ遭ヒテ遂ニ身ヲ亡ス者有リ、唯未ダ唐ニ至ルヲ見ザルニ難阻飢寒ノ悲ミ有リ。〉(『菅家文草』)と記している。渡唐の航海の危険・遭難の頻発は相変わらず、また後期には新羅の海賊船の横行が烈しく、遣唐使関係者に恐怖と忌避の念を深めさせていた。第14次遣唐大使佐伯今毛人や第17次遣唐副使小野篁などの仮病による乗船拒否事件などは、後期の堂上貴族の柔弱性も加わって、その好例である。一方、今までの律令体制がようやく崩れて中央集権機構が破綻のきざしを示してきた後期にあっては、遣唐使派遣に伴う巨額の費用は、国家財政上の大きな負担となった。唐にあっては日本の遣唐使は朝貢使とみなされているが、日本は独立国として唐に軽視されぬように、また他国の入唐使に劣らぬようにとの誇示意識から、巨船の建造・多数の使節人員・唐朝への多額の献納品など、その費用は莫大なものであった。それらは、『延喜式』の大蔵省の記によっても想像することができる。894年(寛平6)在唐の日本僧に送った大政官牒に〈頃年頻リニ災シ資具備リ難シ。而モ朝議已ニ定マリ使者ヲ発セント欲ス。弁整ノ間或ハ年月ヲ延サン。〉(『菅原文草』)と記して、累年の天災で資材の準備が容易でないので遣唐使の派遣は延期していると述べている文辞によっても、その間の事情が知られる。こうして遣唐使廃止後は、以前から行われていた彼我の交易を主とした民間貿易船が、これに代わっていくようになった。留学生・学問僧を含めて遣唐使たちは、長い期間にわたって大唐の学問・技術・思想・宗教・芸術・政治などの優れた文化や文物を日本にもたらし、国家や社会生活に大きな影響を与えた。平安朝後期からの日本文化の開花は、こうした唐文化の摂取消化の基盤の上に培われていった。
【遣唐使と混血児】遣唐使たち、とくに留学生や学問僧は、その目的上一般に長期間唐土にとどまって勉学にしたがった。ことに8世紀前半ごろの遣唐使は15、6年の間隔を置いて派遣されることが多かったので、留学生・学問僧たちは、次の帰国の船便を得るためにはその間在唐して待たなければならない。長い在唐生活のなかで唐の女性と結ばれて子をもうけた例は、実際には数多くあったことと思われるが、私事のため記録の上ではわずかしか知ることができない。第7次遣唐使の学問僧弁正は、在唐中、唐の女性と結婚して朝慶・朝元という二人の男子をもうけた。弟の朝元は少年の身ながら第8次遣唐使の帰国船に単身乗って来日している。来日後、秦忌寸朝元と名乗って朝廷に仕え、733年第9次遣唐使の判官として随行し渡唐した。第8次の留学生羽栗吉麻呂は在唐中に翼と翔という二人の男子を得た。734年第9次遣唐使の帰国の際に、吉麻呂は二子を連れて帰国した。翼・翔兄弟はその後朝廷に仕え、弟の翔は759年第11次遣唐使の録事として渡唐してそのまま唐土にとどまった。その後兄の翼は776年第14次遣唐使の准判官として40年ぶりに渡唐し、翌年9月に帰国した。798年(延暦17)に80歳で没した。阿倍仲麻呂は19歳で入唐以来、在唐五十余年に及んで唐土に客死したが、唐の女性を娶った記録はない。ただ『続日本紀』の779年(宝亀10)5月の記に、〈前ノ学生阿倍仲麻呂、唐ニ在リテ亡ス。家口偏ニ乏シクシテ葬礼欠クルコト有リ。勅シテ東絶一百疋白綿三百屯ヲ賜フ。〉とあるところから見ると、日本の朝廷が唐使に託して唐土の仲麻呂の遺家族に葬礼費用を送ったことになる。第10次遣唐大使藤原清河は帰国の途次同船の阿倍仲麻呂とともに遭難し、安南をへて再び唐土にもどり唐朝に仕えて73歳で没した。その間清河は喜娘という女子をもうけた。喜娘は父の死後渡日を希望して第14次遣唐使の帰国船に同乗したが、途中船は遭難難破して漂流、喜娘は判官大伴継人の献身的な助力により一命を助かり本土の天草に漂着した。ときに15歳であった。継人は藤原清河が大使の折の副使であった大伴古麻呂の子である。来日後の喜娘の消息は不明である。第8次の留学生吉備真備の在唐中の子についての記録はないが、『宇治拾遺』や『本朝能書伝』には、能書家忍海原魚養は真備の在唐の折唐の女性との間に生まれた子で、帰国の折唐土に残してきた子であるとして奇妙な伝説をのせている。留学生高内弓については763年(天平宝字3)唐の妻と幼い二子を伴って帰国の途次、海難を恐れた船長によって妻子を海中に投げこまれ殺されるという悲劇が伝えられている。これらは記録に知られるわずかな例であるが、両国の文化と血の交流を身をもって深めたこのような人々は意外に多く、その遺した貢献と影響は大きなものがあったといえる。
〔参考文献〕森克巳『遣唐使』1972、至文堂
佐伯有清『最後の遣唐使』1976、講談社
高木博『万葉の遣唐使船(遣唐使とその混血児たち)』1984、教育出版センター
