●阮朝 げんちょう
アジア ベトナム社会主義共和国 AD1802 グエン朝
1802〜1945 阮福映(グエン=フック=アイン)が建てたヴェトナム最後の王朝。ヴェトナム中部のユエに都を置き13人の皇帝が立ったが、19世紀後半からフランスの侵略を受け、多くの領土を割譲させられるとともに阮朝自体も保護領とされた。
【黎朝時代の阮氏】阮氏は元来ハノイの黎朝(1428〜1789)の重臣であったが、1527年に莫登庸(マク=ダン=ズン)が王位を簒奪すると、阮淦(グエン=キム)は1533年に黎朝の遺子荘宗を擁立して莫氏に対抗した。莫氏との抗争は半世紀にわたって続くが、1545年には阮淦は毒殺され、その子阮漢(グエン=ホワン)は実権を握った娘婿鄭検(チン=キェム)との勢力争いを避けて1558年にユエに移った。やがて黎朝の実権を鄭氏が握るようになると阮氏も自立的傾向を増していった。こうして黎朝は名目的な皇帝の下でハノイの鄭氏の安南王国とユエの阮氏広南王国に二分された。1771年に阮氏の圧制に対して西山(タイソン)党が反乱をおこすと、これを好機として、鄭氏は1775年にユエを攻略した。阮氏一族は南方に逃れたが、鄭氏と結んだ西山党によって1777年にほとんどが殺害された。
【阮朝の成立】阮氏でただひとり難を逃れた阮福映は、フランス人宣教師ベ一ヌの助力で旧領回復をめざし、フランス人義勇兵の力もあって1802年にはハノイを陥落させヴェトナムを統一することができた。黎朝は鄭氏とともにすでに西山党によって滅ぼされていたため阮福映は即位し、年号を嘉隆と定め阮朝を建てた。彼はその年号により嘉隆(ガ=ロン)帝(在位1802〜1820)として知られる。1804年には宋主国である清から越南(ヴェトナム)国王に封じられ、初めてヴェトナムの国号が定まった。嘉隆帝は即位後、清の律令にならった「皇越律令」を制定して儒教的中央集権国家をめざし、またキリスト教の布教にこそ好意を示さなかったが、阮朝の創立に貢献の大きかったフランス人たちを顧問として好遇した。その子明命(ミン=マン)帝(在位1820〜1841)は中央集権化を完成したが、一方極端な排外主義者でもあり、父帝の時代に功のあった者も含めてすべてフランス人に国外退去を命じ、キリスト教の布教を厳禁して宣教師を迫害するようになった。つづく紹治(ティエウ=チ)帝(在位1841〜1847)・嗣徳(トゥ=ドック)帝(在位1847〜1883)も反フランス的で、キリスト教弾圧もさらに厳しいものとなった。
【フランスの侵略】宣教師によるフランス軍派遣の要請をフランス皇帝ナポレオン3世が承認したのは1857年7月であった。翌1858年9月1日、フランス海軍はダナン港を攻撃し、翌日には付近一帯を占領、こうしてフランスの武力侵略の第一歩がしるされた。翌年2月にはサイゴンを占領し、一時は阮朝軍に包囲されて孤立したものの、1861年にはメコン=デルタ地帯を占領するに至った。かくして1862年6月には第一次サイゴン条約が結ばれ、フランスはサイゴンを含むコーチシナの東部三省を獲得し、コーチシナ総督を置いた。まもなくフランスは西三省も占領して東部三省と合併させ、1874年の第二次サイゴン条約でこれを追認させた。清仏戦争の結果、1885年には清からヴェトナムの宗主権を奪い、1887年にはカンボジアと合わせてフランス領インドシナ連邦をつくった。ヴェトナムは実質的にはフランスの中央集権的植民地支配下にあった。阮朝は名目的にはアンナンの統治権を保持していたが、その実権はフランス人が握り、皇帝の廃立もフランス側の左右するところとなった。
【阮朝の終焉】1940年9月22日、日本はフランス、ビシー政府と軍事協定を結びヴェトナムに進駐した。1945年、敗色濃厚となった日本は寝返りを恐れてフランス軍を武装解除、ユエに傀儡政権を樹立し、阮朝13代保大(バオ=ダィ)帝(在位1932〜1945)は独立とフランスとの不平等条約廃棄を宣言した。しかし8月15日にインドシナ共産党の革命が成功すると保大帝は22日に退位し、ここに阮朝は滅んだ。