●検地 けんち
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戦国時代末から江戸時代末にかけての土地調査。竿入・縄打などともいう。これは通常,村ごとに土地を一筆ごとに丈量して田畑屋敷の区別,上・中・下・下々などの等級・面積・分米(石高)および名請人を決定し,村の総面積・総石高(村高)を把握することで,中世の検注に相当する。この検地は,封建領主が勢力基盤とする土地および農民を直接把握するための基本政策の一つであった。【検地の変遷】戦国大名のうちには武田氏・後北条氏らのように自領を検地するものがあった。それらを前提に,全国を一定の方針で実施した検地は,豊臣秀吉のいわゆる太閤検地である。秀吉は1582年(天正10)から1598年(慶長3)にかけて各地を征服するごとに,あるいは大名を転封するたびに,その他必要に応じて検地を繰り返し実施して,全国の土地を確実に掌握すると同時に,それまで不統一であった長さ・枡や複雑な土地の権利関係を整理することにより従来の土地制度を一新し,幕藩体制の基礎を樹立した。すなわち,太閤検地では曲尺(かねじゃく)の6尺3寸を1間,1間四方を1歩として従来の360歩1段を300歩1段に改め,枡も京枡に統一して,田畑屋敷一筆ごとに従来の年貢高ではなく公定生産高としての分米(石高)を把握して石高制の基礎をつくり,また作職を所有して貢納する農民のみを名請人として,他の土豪・有力農民の権利を排することにより,土地の権利関係を整理して兵農を分離し,一地に一領主・一農民というすっきりした領主−農民関係を樹立した。徳川氏も1600年(慶長5)以降,上述の太閤検地の原則を継承して各地を検地した。伊奈備前守忠次・大久保石見守長安らが奉行として実施したので備前検地・石見検地と呼ばれている。これらの検地は,1間を6尺1分とし,藪や川沼をも石盛して高に入れるなど,太閤検地とは若干違っていた。その後,1661年(寛文1)から1694年(元禄7)にかけて諸国の検地が実施されたが,とくに1694年の飛彈国検地からは検地の制が大いに具備され,以後,太閤検地を古検,1600年以降の徳川氏の検地を新検と呼んで両者を区別し,新検で取りあげられた新開田を新田と呼んだ。ところが,1726年(享保11)関東諸国および大和の検地に際し,従来の条目を取捨して32カ条の詳細な新検地条目が定められ,これによって実施されたので,これまでの検地を古検といい,この享保検地以降の検地を新検と呼ぶようになった。それとともに元禄以前に検地した田畑を本田畑,元禄から享保までの新開を古新田,享保以後の新開を新田と称した。幕府はその後も幕末にかけて検地を実施し,各藩でも1661〜1681年(寛文〜延宝期)以降検地を行った。とくに各藩では財政的基礎が検地によって直接決定されるため,かなり厳しく実施する場合が多く,そのため農民の反抗を招き,百姓一揆の直接の原因となったことも少なくない。明治維新とともに,幕府および藩による検地の事業は大蔵省の地租改正事業に引き継がれた。
【検地の概要と種類】検地の実施にあたっては,まず実施基準を示した条目が出され,ついで検地奉行が任命されてその下に帳付・竿取・見付役・案内者などの役人が置かれた。検地役人は不正行為をしない旨の誓紙を差し出して村に入り,それぞれ条目にそって検地の業務に服した。作業が進展するに伴い地引帳・地引絵図・野帳などの帳簿がつくられ,最終的に検地帳が作成された。実施の時期は,春秋両季の麦稲の刈入れ後であり,春検地はその年から,秋検地は翌年から高入れとなって租税の対象となった。検地には他に居検地・地押・回り検地などの種類があった。居検地は竿入すると打出が予想される場合,村方の請願で竿入せず見計いで増高を課すこと。地押は田畑の等級・高を据えおき,竿入して面積を修正すること。回り検地は田畑1,2筆または論所を検地する場合,その総回りを絵図に写し,器具で反別を算出することをいう。
〔参考文献〕宮川満著『太閤検地論』三冊,1957〜1963,御茶の水書房
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