●憲政擁護運動 けんせいようごうんどう
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藩閥官僚政府打倒・政党政治確立をめざす政治運動。護憲運動と略称する。【第一次護憲運動】第二次西園寺内閣は,日露戦争後の日本の軍事大国化に起因する財政難を打開すべく,行政財政の整理を計画したが,陸相上原勇作は,朝鮮・満蒙確保を理由に,海軍拡張に対抗して二個師団の増設を要求し,閣議で拒否されたので1912年(大正1)12月辞職した。内閣は後任陸相が得られぬため倒れ,内大臣桂太郎が後継首相となった。これは政党政治の新展に逆らう藩閥勢力の陰謀と国民に受けとられ,新聞記者や政友会・国民党有志は憲政擁護会を結成し,憲政擁護・閥族打破を旗印とする民衆運動をおこし,運動はたちまち全国化した。翌年1月桂は立憲同志会の組織を発表したが,国民党の半数が応じただけに止まった。桂はさらに天皇の詔勅によって,政友・国民両派が提出した内閣不信任案を撤回させようとしたが失敗し,議会を連日包囲する民衆の圧力の前に2月11日,予定した議会解散を実行することなく辞職した。次に登場した山本権兵衛内閣は政友会を与党とし,軍部大臣武官制や文官任用令に若干の改革を加え,政党の権威は一段と高まった。
【第二次護憲運動】虎の門事件で第二次山本内閣が倒れた後,1924年1月枢密院議長清浦奎吾が貴族院の研究会を母胎として組閣した。1922年の加藤友三郎内閣以来三代にわたる官僚内閣の登場は世論の反発を呼んだ。第一党の政友会は分裂し,内閣支持派は政友本党を名のったが,政友会・憲政会・革新倶楽部の三派は連合して,第一次の場合と同様なスローガンを旗印に倒閣運動をおこした。内閣は議会を解散したが,三派は普選断行・貴族院改革・行政財政整理などをかかげて5月選挙で圧勝し,翌月第一党憲政会総裁加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立し,1932年まで続く政党内閣期の開幕となった。ただし第一次に比べ第二次運動は閥族打破より階級闘争防止を主眼とし,民衆運動も盛り上がらなかった。
〔参考文献〕山本四郎『大正政変の基礎的研究』1970
今井清一『日本近代史II』1977
坂野潤治『大正政変』1982