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●原子爆弾 げんしばくだん

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 ウラン235やプルトニウム239などの核分裂性物質の重い原子核が,中性子によって2個以上の中位の重さの原子核に分裂するときに発生する莫大なエネルギーを利用した爆弾のことである。原子爆弾が核分裂反応を利用しているのに対して,軽い重水素などの原子核同士が結びつく核融合反応を利用したのが水素爆弾である。

原子核エネルギーの解放】原子核反応を世界で初めて人工的におこすことに成功したのは,イギリスの物理学者ラザフォードである。彼は1917年に窒素の原子核にアルファ粒子を当てることによって核反応をおこした。このように初期の原子核分裂反応では,陽子やアルファ粒子が原子核を衝撃する弾丸として用いられたが,1932年のイギリスのチャドウィック中性子の発見により,核反応に最も有効な粒子として中性子に注目が集まった。1934年には,イタリアのフェルミが中性子をウラン238に照射することによって原子番号93番目の元素を人工的に生成することに成功した。さらに1938年,ドイツのオットー=ハーンらが,重いウランの原子核中性子によって中位の重さのバリウムとルテニウムに真二つに崩壊すること(核分裂)を発見した。このときウラン原子1個の核分裂によって解放されるエネルギーが約2億電子ボルトに達することが,アインシュタインによって確認された。これは化学エネルギーの約300万倍に相当し,ウラン235の1kGが核分裂で放出するエネルギーはTNT高性能爆薬2万t分に匹敵する。しかしながら,核分裂性物質がどのくらいの量あれば核反応が連鎖的に進行するかについての問題が残っていた。

【原子爆弾製造競争】1939年,フランスのジョリオ=キュリーはイギリスの「ネイチャー」誌上で,核分裂ごとに数個の中性子が放出されること,および核連鎖反応が可能であることを指摘した。この論文は欧米各国において,原子力をめぐり科学者と政府が接触するきっかけを与えるものとなった。まずドイツでは原子力に対する検討が始められ,1939年9月にはベルリンのカイザー=ヴィルヘルム物理学研究所を中心として本格的な研究が開始された。ドイツでの動きを察知したアメリカでは,同年8月ドイツから亡命したアインシュタインがルーズヴェルト大統領宛に書簡を送り,原子力研究の推進を訴えている。イギリスでは1940年6月,航空機生産省にモード(MAUD)委員会が設置され,翌年7月に詳細な原子力開発計画を発表した。モード委員会の報告はアメリカを動かし,1942年6月に陸軍の管轄のもとで“マンハッタン計画”と呼ばれる原子爆弾製造計画が開始された。同年秋には気体拡散法によるウラン分離工場の建設が始まり,12月にはイタリアから亡命したフェルミがシカゴ大学において黒鉛レンガを積み上げた原子炉でウランの核分裂連鎖反応を人工的に制御する実験に成功し,原子爆弾製造に向けて大きく前進した。一方,ドイツ・日本の原子力開発は第二次世界大戦での敗色が濃くなるにつれて大きく遅れていた。そのあいだにアメリカは着々と開発を進め,1945年5月にはついに原子爆弾を完成させ,ニューメキシコ州アラマゴード砂漠で初の原爆実験に成功した。そして,1945年8月6日にはウラン235を使用した原子爆弾が広島に,8月9日にはプルトニウム239を使用した原子爆弾が長崎に投下された。原子爆弾が第二次世界大戦後の世界情勢に大きな影響を及ぼしたことは周知のことであるが,一方で科学研究の様式にも大きな影響を与えた。原子力開発は動員された科学者数・資金の膨大さは言うに及ばず,産業・軍事・政治にも科学研究が深くかかわり合っていることを大きく特徴づけるきっかけとなったのである。

〔参考文献〕廣重徹『科学の社会史』1977,中央公論社