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●原始時代 げんしじだい

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 人類の誕生から国家の成立にいたる,数十万年あるいはそれ以上という,人類史上もっとも長期にわたった時代である。この原始時代というのは,人類史上の時代設定であって,特定地域や一国家の歴史にみる,個別具体的な時代区分とは次元を異にする。すなわち,この時代区分法の根源がマルクス(Karl Marx)の『経済学批判序言』(1859)にある〈大づかみに言って,経済的社会構成体のあいつぐ諸時代として,アジア的・古代的・封建的・近代ブルジョワ的な生産様式をあげることができる〉(国民文庫4,経済学批判より)という一文に由来することが示すように,全人類が経過したと思われる社会構成の変遷に立脚するものである。つまり原始時代とは,原始共同体が支配した時代の意で,その特色は無階級と生産手段(土地)の共有の二点にあったといえる。したがって後続する古代へは,最初の階級制といわれる奴隷制社会の形成をもって移行するとも表現できるのである。また,奴隷所有にもとづき,それを維持・強化させるべく発生したのが最初の国家だとも説明されている。

 このようにみてくると,原始時代と古代とは画然と区分できるかのごとくだが,実はそれほど単純ではない。わが国の場合,先土器時代ならびに縄文時代が,原始時代に含まれることには異論がない。しかし階級発生のひきがねともいうべき農耕が定着・発展する弥生時代となると意見が分かれてくる。『後漢書』にいう奴国はともかく,『魏志倭人伝』に詳述される邪馬台国を国家と認める立場からすれば,弥生時代の後期は原始時代に含まれないことになる。考古学の研究成果もまたこれを否定はしない。そして弥生・古墳時代をマルクスが「あいつぐ諸時代」の一つと考えた,アジア的生産様式下の社会と認めることもできる。後続する律令体制下の国家こそアジア的専制国家ということになる。しかし,アジア的生産様式下の社会を階級社会とは認めない見解も存在する。それによれば,わが国の真の階級社会の成立は,律令体制の成立を待たねばならないことになる。したがって,弥生時代はおろか古墳時代までも原始時代のうちに残さねばならぬというのである。だが,巨大な前方後円墳が築かれる社会を無階級社会と認めることは,困難というべきだろう。こうして,わが国の場合は原始時代には縄文時代までを含ませ,弥生時代は階級の発生期という点を評価しつつ,古代のうちに含ませる者が多いようである。ちなみに,中国では伝説的要素が濃い夏を除外したとしてもなお,紀元前2000年紀前半には,また西アジアでは青銅器時代すなわち紀元前3000年紀には,それぞれ原始時代から古代に移行していたのである。金属器使用の始まりとほぼ対応する。

【文化史的分類】モルガンは,その著『古代社会』(1877)の中で,原始・古代を野蛮・未開・文明の三段階に大別した。野蛮とは土器発明以前の段階をさし,文明段階の始まりを文字の発明とそれにもとづく記録作成の開始に求めたのである。当然先後の差はあれ,未開段階の中に農耕・牧畜の開始も金属器の発明も含まれてしまうことになる。したがって原始時代の終末もまた未開の中層から上層への転機のあたりに求められることになる。このモルガンの説に依存しつつ独自の分析を加えたエンゲルスは,文明の始まりを分業システムの採用,奴隷労働そして国家の出現などによって説明しようとした。すなわち,エンゲルスによれば,原始時代とは野蛮と未開の両段階だということになる。モルガンやエンゲルスの想定の基礎となった具体的事実は,その後の考古学研究の成果に照らして,修正されるべき多くの点を有する。そうした新事実を踏まえつつチャイルドは,野蛮と未開両段階を農耕・牧畜の有無によって意義づけようとして支持を集めた。旧石器・新石器時代に対応する。

 わが国の原始時代について石母田正は,先土器・縄文時代を野蛮段階に,弥生時代と古墳時代前期とを未開段階に対応させた。石母田は,倭の五王の時代が確かな文字使用の開始期であるとの立場から,これ以降を文明段階と考えたのである。しかし異論も多いようである。

【文字・記録の有無による区分】スウェーデンのニルソンは,1838年に記録によって歴史を明らかにできる時代を歴史時代とし,それに先行する段階を先史時代(Prehistoric AGe)の名で区別した。もちろん両者の移行過程として,不十分ながら文献の存在する時代が介在する。これをとくに原史時代(Protohistoric AGe)として区別する場合があった。この分類からすれば,先史時代が原始時代に該当することになるが,現在これを使用する人は少ない。

【原始時代の評価】自然に依存しつつ狩猟・採集によって生計を営んだ原始時代の人類は,絶えず飢えの危険にさらされ,貧困な生活を送ったと考えるむきがある。この飢えと紙一重の危機的状況から脱すべく,人々は槍から弓矢ヘ,打製石器から磨製石器,さらには金属器へと道具の改善を成し遂げていった。いいかえれば,労働こそが人類文化を高める原動力だったというのである。

 このような評価に対しては,文化人類学者の反論がある。たとえば,リーは,アフリカのブッシュマンが男1人で4,5人の家族を養うには,1日わずか2時間強の労働時間で十分で,残余の時間は昼寝・訪問・ダンスなどに費やしていると報じた。ローウィも,旱魃のたびに飢餓に悩む農民が,果たして狩猟・採集民よりも何か勝っているだろうか,と問いかける。またサーリンスも,狩猟・採集民は貧しいが,それゆえに彼らは自由であった。人間の労働量は「進歩」とともに増大し,物質的には恵まれたが余暇を失った。しかもこの20世紀こそは,かつてない飢えの世紀で,人類の三分の一ないし二分の一もが空腹を抱える事実をどう考えるか,と指摘する。

 自然科学的な調査の結果は,縄文時代の日本列島がきわめて恵まれた自然環境下にあったことを示している。したがって縄文時代人の食生活がブッシュマンのそれに劣ったとは想定できないという。原始時代の研究は,これを貧困と飢餓の時代とする先入観を除去するなかで,再構築する必要があるといわねばならない。

原始信仰】原始時代人の間で行われた信仰をいうが,現存する未開民族のそれを含める場合もある。いずれにせよ原始信仰は,いわゆる宗教遺跡・遺物を基礎にしつつ,これらと未開民族などの信仰形態との対比を行って解明を進める場合が多い。原始時代としては,進んだ段階にある縄文時代には,二彩漆塗弓など,日常活動に使ったとは思えぬ儀器がつくられた。抜歯など人体加工,また土製仮面や石剣などの存在も,各種儀礼の盛行を物語るといえよう。一方,妊婦を表現する土偶などは,感染呪術の存在を示すとみられる。すなわち,縄文人に支配的だったのは呪術だったと主張されるのである。旧石器時代の岩壁画なども,これと同じ範畴で考えてよいだろう。一方,一般に塵芥の捨て場と理解されている貝塚に,丁重な人体埋葬が見られることを重視して,貝塚をアイヌの送り場に対応させようという見解もある。もし縄文人が,中・近世アイヌほどに宗教的情操の高まりをみせていたとすれば,彼らには,神観念がすでに定着していたことになる。現存する狩猟・採集民にも,動物を掌握し,これを人々に送り届ける神を意識する例がある。その多くは,神自体が動物の姿をとると信じられている。遺体を埋葬する風はすでに旧石器時代に成立していたが,それらには焚火跡や赤色顔料の伴う例があり,再生のための呪術が試みられたといわれている。原始時代に特徴的な埋葬体位は,手足を折り曲げた屈葬で,伸展葬はやや遅れて現れるといわれる。屈葬体位については,東南アジアの民族誌などを参照して,死霊畏怖の念が存在したと説くむきもあるが,にわかには決しがたい。だが,民族誌は,祖先崇拝の風が形成されるのは多くの場合農耕段階の到来を待たねばならなかったことを教える。このころには神の姿を人間のそれに求めるようになるが,祖霊が宿るのは巨石や動物であると信じられることも多い。原始時代の儀礼や呪術は,集団的に執行されたと考えられている。縄文時代集落の場合,その執行の場は環状に並ぶ住居に囲まれた中央広場であったろうとされる。確かにここから焚火跡や土偶片が出土する場合も多い。愛知県伊川津貝塚では,叉状研歯が施された数少ない遺体に限って猿の橈骨製耳飾が付けられていた。この事実から,遅くとも縄文時代晩期には,専門の呪術者が存在したとする見解もある。

【原始美術】この語は,原始時代人類が残した絵画・彫刻等を漠然と総称して用いる。原始絵画や彫刻は,旧石器時代に早くも現れ,大西洋からシベリアにいたるユーラシア大陸に広く分布をみる。それらのうちとくに名高いのが,南フランスから北スペインを中心とする地域にみられる,旧石器時代後期の洞窟壁画である。マンモス・ウシ・ウマ・シカなどの野獣が素材となることが多い。岩陰のレリーフには,動物のほか女性像も描かれる。旧石器時代人は,象牙・骨・石・テラコッタによる彫像も残したが,とくに豊満な女性を表現したものが知られる。わが国でも大分県岩戸遺跡から出土した,こけし形石偶の例があるが,大陸のそれのようなリアルな表現はみられない。

 中・新石器時代の岩壁画もヨーロッパ・アフリカ・インドなどをはじめ,アメリカ・オーストラリアなどにも広くみられる。年代は十分に明らかとはいえないが,この種のものは韓国にも見いだされる。だが目下のところ,日本列島からの発見例はなく,わずかに手宮洞穴やフゴッペ洞穴など続縄文期の北海道に記号風の岩壁彫刻が認められるにすぎない。縄文時代人は人間・動物を彫った土偶,人面・獣面をもつ雄渾な土器など,彫塑の世界に優品を残したほか,繊細な彫刻をもつ石剣などの磨製石器をも数多く創作したが,絵画にみるべきものを残さなかったのである。象徴的な絵画を土器に,銅鐸に残したのは,弥生時代人であった。このような原始美術品は,もちろん単に原始時代人が芸術的直感に触発されて生みだしたものではない。それは彼らの願望と祈りをこめた,すぐれて宗教的情操にもとづく作品だったのである。