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●元寇 げんこう

アジア 日本 AD 

 鎌倉後期の二度にわたる蒙古(元)軍の日本来襲をいう。また文永・弘安の役ともいう。蒙古は世祖忽必烈のとき,属国高麗をして日本に服属を求めさせたが鎌倉幕府はこれを拒絶した。蒙古は武力征服を決意して1274年(文永11)10月忻郎らの率いる蒙古軍を壱岐・対馬をへて博多に上陸させた。日本軍は蒙古軍の鉄砲毒矢の威力に抗しえなかったが,その夜,元軍は嵐のため多くの兵船を失い高麗に引きあげた。幕府は再度の来寇を恐れて博多沿岸に石塁を築き朝廷は国難を払う祈祷を諸社寺に行わしめた。また幕府は異国警固番役を九州の御家人に課した。1281年(弘安4)再び元軍は14万の大軍にて来襲した。日本軍は勇戦してこれに抗したがその夜再び北九州を襲った台風によって蒙古船団は壊滅した。

 元軍はその後世祖の死によって来寇しなかったが,戦費警備費の増大で財政的な破綻や御家人の窮乏によって幕府の衰退の一因となった。