50音順    検 索

●言語 げんご

AD 

 世に「身振りことば」といわれるものもあるが,普通に言語というときは話しことば書きことばの両面を総称して,〈人が心のなかで考えたり感じたりしたことを他へ伝達するために,音声や文字をもって表す手段〉と定義している。どこのどのような言語でも,社会的に決まった約束で成り立ち,伝統的な習慣によって規制されながら使用されている。一つの音声や文字がつねに一定の意味をもって人々のあいだで理解されているということは,一定の構造を有し,全体としての組織が存在し,体系的な文化活動として評価される。そして,その活動という点に重きを置いて考察すれば,個人による1回ごとの表出であり表現であることも言語を考えるうえでの重要要素であるといえよう。言語の二面性の第1は,この社会性と個人性(表現性)である。communicationとしての言語は前者で,これについては,コミュニケーションと表記する外来語として通用しているが,伝達と邦訳されては「通じ合い」の本義を誤りかねないということだけ述べておこう。後者の表現性は,よりよい表現とか美しい表現とかいうときに意識される一種の価値観と結び合う。したがって,その人が相手に向かって発言するとき,単に理解してもらえればよいという段階で満足せずに,心を込めてことば選びと文脈づくりの点に効果をあげるならば,コミュニケーションの効果もあがることになる。言語表現における指導上の要諦もそこにあるのだといえよう。二面性の第2は,音声と文字。音声言語(spoken lanGuaGe)は話しことばとか口ことばとかいわれるのと同じとみてよいし,文字(書記)言語(written lanGuaGe)は書きことばといっている。音声はもともと一種の音響で,咽喉や鼻腔などの音声器官から発せられる個人差のある発音である。その場その場の具体的な音声が,社会的に抽象された結果,その言語社会に共通の一種の音観念が生まれる。そうして社会的・歴史的な慣習の結果として,規範的・理念的に行われている言語音の組織を「音韻」という。人は音韻をやりとりするのに音声を通じて,発言者となったり理解者となったりしているのだといえよう。文字は,音韻の代理をなすもので,つねに要素として音と意味とをもち,音要素と意味要素との結合である。文字が符号と違うところはそこにあるのであって,文字の出現が人類文化の発展に貢献した度合は測り知れない。人類が音声言語を用いることを習い覚えてからのめざましい進歩発達は,ここにおいてますます顕著となった。文字についての詳細は,表意・表音文字に限定しても記述すべきことが少なくないうえに,その起源について考察すべきことは,人類文化の歴史とともに,大きく広範囲におよぶものなのである。二面性の第3は,ラング(lanGue)パロール(parole)。ソシュールの学説にもとづく考え方。ソシュールパロールのことを「ラングの個人的遂行」と説明している。現実に個人の具体的発言として表出されるものが他人の理解するところとなるのは,その根底に社会性という客観的な基盤が存在するからである。客観的なラングが主観によって生命を与えられ,そこにパロールが生じる。ラングは言語の静態で,パロールが言語の動態であるともいえる。二面性の第4は,ロゴス(loGos)とパトス(pathos)。生きて働いている言語はもちろん,観念的な存在として静態を守っている段階でも,言語にはロゴスすなわち知的な面と,それを裏打ちしたり支持したりするパトスすなわち感情的な面の二面がある。社会においても人間においてもロゴス・パトスの両面があってこそその存在があり得るように,言語も同様であることを忘れてはならない。たとえば月のことを「お月さん」と呼ぶとき,濃厚にパトスがにじみ出ていることを知る。知的な叙事文において「お月さんをめがけて犬が吠えていた」などと書いてあるのに接しても,人はだれも分裂や不調和を感じることはないだろう。

 言語学が明治時代に博言学の名称で登場して以来,言語一般を対象として学問は進んできた。歌論や連歌論,さては俳論や文章作法のなかで,語や文の分析が始められていたわが国の場合を例にとってみてもわかるように,実際生活のなかから国語の反省と観察とがおこった。宣教師の渡来ということが,国語の広い視野からの見通しを推し進め,学問的な操作の対象となっていった。翻訳ということが行われる段階で,語意や語法のことが論述されていった。どこの国語もそのように比較検討される傾向はこの数十年のあいだに進展して,比較言語学という学問が独立するまでになってきた。語源学・文法学・修辞学などと,各部門ごとの追尋は民族・国家それぞれの立場で熱心に行われ,その結果,論文交換から協同研究の成果をみるまでにいたったのである。とくに近来著しいのは,言語機能の開発・応用ということであろう。情報社会が新しい段階に突入したといわれるのも,言語と言語活動の専門的研究が進んだうえに,機能論が理論と実際との両面で格段の進歩をとげたからであった。この趨勢は今後ますます進展の歩調を速くしていくことであろう。

 前記ソシュール(1857〜1913)の学説を踏まえたうえで,日本古来の国語認識とその研究調査を整理した形をもって進めた,時枝誠記提唱の言語過程観のことに触れてみよう。従来の言語観が言語構成観というべきものであったところへの反論としてはじめられた主張であるが,戦中・戦後を通じて,学界・教育界に与えた影響は大きい。簡略にいえば,概念〜聴覚映像〜音声(文字)の過程を通して言語主体の心情は外化し,それを受け取った人は,この図式の過程を逆に辿る形で,理解という概念過程に達する,そのように言語の交流が実現して,相互のコミュニケーションができるのである。言語生活の実態と,国語教育の現場のことを考慮するとき,この過程観に立つことが実に有効適切であるということがいわれ,多少の問題点を残しながらも,現場への力強い刺激と示唆とを与えることとなった。言語構成観といわれる在来の考え方,つまり言語は音声・意味・語法・文字などから成り立つという立場に立って,それぞれの部門を精細に検討する学問は互いに助長し合って,言語そのものの実態と本質を究明するうえで,大きい貢献をしてきた。さらに分派的な言語心理学言語社会学・言語工学などの学問が急速な進歩をとげつつある現況を見渡せば,隣接学問の助けを借りることによって言語自体の機能を開発していかねばならない。情報社会の推進に言語が役立つ部面はいよいよ深刻かつ多岐にわたって重大となっているので,それぞれ独立してきた各学問に関心をもつ必要がある。いずれも人間の言語を盛り立てていくうえで,独自の体系づくりが方向を誤ることがないように,そのためには,以前にはなかった用語,言語生活・言語環境などということばに象徴されることばの世界について,検討することが望ましい。これらの語については,言語の共時性・通時性(横の関係と縦の関係)に順応しながら実態調査を怠らぬことが肝要であろう。

 言語教育としての国語教育についていわねばならない。戦後の国語教育で大きく変化をとげたことの一つに音声言語(話し言葉)の教育がある。戦前にもなくはなかったけれども,教科書を基本としての読み書きの教育が大部分で,わずかに,標準語運動と日本語普及のなかで先覚者的な人々の手によって指導書などのなかで論じられ,口頭による方法(おもにラジオ放送)で実演として行われていた。それを戦後は教材も広汎にとり,教育の場も広げ,試論的に推し進めるようになり,やがて試論の域を脱して効果もあがっているのが現状である。電話のかけ方や文集・新聞の編集などが国語教育の部門となっていくにつれて,話し方・話し合い・討論や会議の実際を正面から取り扱いの対象とした。発音指導で,アクセントやイントネーションのことなどが大きく取り上げられたことで,書きことばの教育にも密接なかかわりをもつようになった。朗読のこと口頭作文のことなど,まだまだ未開拓の分野は広く残されているけれども,言語表現の教育指導のあるべき姿を尋ね求める気運は年々濃厚になりつつあるようで,国語学力の全般的向上という点からみて成果ありと判断してよかろう。しかしながら,書き表す力はもちろん,読み取る力において下降線を辿っているのではないかという意見や,伝統的な良さを軽視してしまうことからくる国語力衰弱を悲しむ声が高い。また,聞き・話し・読み・書くという四つの分野の最初に位置づけられ基本ともなるはずの,聞くことの教育ができていないことが原因で,そこからいたずらに騷々しい冗舌を生み出したり人間関係の望ましいありようが無視されて,敬語の軽視・蔑視はおろか,伝統的に誇りとして受け継がれてきた「ことばのきまり」が地に落ちてしまったことは,誠にゆゆしき遺恨事といわなければなるまい。国語教育の問題は同時に言語教育の問題でもあるので,わが国語教育の現状は他の国々の場合にも当てはまる。

 言語障害児の問題は,言語教育のなかで近来重きをなすようになったことである。かつては吃音(どもり)の矯正という程度のことでもそれほど施策がみられなかったのであるから,それ以外のいわゆる問題児のなかの不幸な人のことはほとんど無策というに等しかったことを思えば,現状のそれは目を見張らされるものがある。口蓋破裂のような欠陥も,器具の発達のみるべきものがあり,その治療および訓練にあたる専門家の研究と育成とは日を追って進んでいる。言語心理学の方面の発達は,自閉児その他異常者への大きな力づけとなっていて頼もしい限りである。弱視・難聴の人へ福音となって種々の器具が出現してきたことと相まって,これから大きな障害を精神的にまたは肉体的に持つ人々ヘの補助手段はますます進んでいくに違いない。言語を話し聞くことはできても読むこと書くことのできない人があるのは,文字という人類の宝を共有できないという不幸せを背負うことになる。この人たちへの援助も格段に進められることがわかり,心ある人々を喜ばせている。器具のもたらす恩恵ということを思うにつけても,その機械文明を今日の高みまで引き上げてくるのに,いかに言語が偉大な用立ちをしたかに思い至るのである。一人の天才も大切である。そして,二人以上の人々が文珠の智恵を出し合うのも言語なので,その共同成果はこれまた大切である。人はことばで考えるという原本的な真実があることを思うとき,いよいよますます,人間の恵まれたありがたさのなかで,この言語以上の宝物があろうとは思えない。言語の科学が一段と推進されることを望まない人はない。そうして,言語の哲学がさらに深く追究されることを今後の課題として念じていかねばならないという道理がわかれば,だれしも心をあらたにして,この道へ精進する気構えをもつであろう。言語学も言語教育もこの言語哲学という人間学から眼をそらせてはならない。観念も大事なことであるけれども,言語に関する限り,人々は実践ということを念頭から去らせてはならない。観念的知識と実践的知識と,この二つがあってどちらも大事なものとされているが,言語ということほどに実践的知識を重視すべきものは世にないのである。実践的知識という知識そのものが,言語の場合,自らの矛盾にたじろがねばならないことなのだという認識に立つ。少なくとも,世の指導者的立場に立つ人は,実践にこれ努める人であるべきで,稿者は,ここに改めて言語実践主義の説をもって,歴史文化という名の人間論への一布石とする。