●顕教 けんぎょう
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仏教分類の一種で,密教の対。顕露・浅略の教えの意。密教の立場から全仏教を顕教二教に分かつうちの一つで,密教以外の一般仏教に対する呼称。密教は秘密の教えで,日常的な言語文字では容易に伝達することができない真実であるのに対し,顕教は人々の宗教的素質に応じて説いた仮の手だての教えだとする。空海(774〜835)の『弁顕密二教論』に顕教二教の区別が説かれている。[1]教主 密教は法身大日如来が教主で自らさとりの楽しみを享受し(自受用),絶対の仏であり(法性仏),内なるさとりの境地(自内証の境)を説く。顕教の教主は他の者にさとりの楽しみを享受させ(他受用),さまざまな仏身(報身仏・応身仏)を現じて,それぞれの宗教的素質をもつ者に応じて教えを説く。すなわち報身仏は地上(十種の修行段階より上位)の菩薩のために顕教の一乗である大乗を説き,応身仏は地前(十種の修行段階以前の位)の菩薩・声聞・縁覚の二乗・凡夫のための三乗の教えを説く。要するに,釈迦如来の説いた教えは大乗・小乗にかかわりなしにすべて顕教となる。顕教の立場でも絶対の仏である法身を説くが,それは真理そのもの(真如)であって,姿かたちもなく,真理の教えを説く宗教的な人格体ではない。[2]さとりの世界 密教の法身はさとりの世界を永遠に説いているが,顕教の立場の法身は絶体真理であるから,言語および言語的な認識を超えたもので,したがってさとりの世界は説くことができないとする。しかし,密教ではさとりの世界を説くことはできないというのは,仮の手だて(方便)の説にすぎないとみる。[3]仮の教えと真実の教え 相手が理解できるように説く教え(随他意説)が顕教である。それは宗教的素質の相違に応じて,それぞれにあてがって説く仮の教えであるから,真実の教えではないとするというのが密教の立場の見方である。だから,密教は法身自体がありのままに自らのさとりの世界を説く教え(随自意説)だとする。[4]成仏の遅速 顕教はほとんど無限に近い期間(三大阿僧祇劫)をかけ,菩薩のさまざまな修行を積まなければさとりを得ることができないと説く。これに対して,密教は父と母から生まれた肉身のままで,現世の修行によって速かに大なるさとりの境地が得られるとする。これを一生成仏,即身成仏などという。華厳宗・天台宗でも一生成仏を説くが,それは道埋として談るにとどまり,実際はほとんど無限に近い時間をかけて修行する結果,さとりを得る(三劫成仏)という域を出ないとみる。[5]教えから受ける功徳
顕教は法身が真理の教えを説かないとして,宗教的素質に応じた教えにすぎないから仮の手だての教えであるという点で,密教より劣ったものであり,法身が自らのさとりの世界を永遠に説いているとする密教は真実の教えであるという点で,顕教より勝れていると判定する。『大乗理趣六波羅蜜教』では全仏教を経・律・論・般若波羅蜜・陀羅尼門の五蔵に分ける。このうち,経・律・論の三蔵は小乗,般若波羅蜜は般若経典に代表される大乗である。これらの大小乗は顕教に属する。第五の陀羅尼門は真言陀羅尼を説く密教である。この陀羅尼門は古くは部派仏教の一派の法蔵部あるいは犢子(とくし)部などが三蔵のほかに明呪蔵を設けたのに由来する。したがって,顕教と密教との区別は紀元前からすでに行われていたとみることもできよう。ナーガールジュナ(150)に帰せられる『大智度論』でも,仏教を秘密と顕示とに分けている。13世紀のアトヴァヤヴァジュラの著『真理の宝環』によると,仏教を大小乗に分けて,大乗を般若波羅蜜理趣と真言理趣とする。真言理趣以外はすべて顕教である。空海は顕教と密教の区別はまったく相対なものにすぎないとした。すなわち顕教・密教は教えの浅深によってさまざまに対応される(『弁顕密二教論)。また「顕密は人(にぐ)にあり,声字(しょうじ)はすなわち非なり」(『般若心経秘鍵』)というように,宗教的な主体者の解釈の仕方によって顕密が定まるとみる。