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●元 げん

アジア モンゴル国 AD 

 チンギス=ハンの孫フビライ=ハンが,1260年に漢地に樹立したモンゴル民族による征服王朝。首都は大都(今の北京)。別に夏季の都,上都が内蒙古ドロンノールにあった。『易経』の一文を典拠として国号を元としたのは1271年(至元8)のことである。1368年,明の太祖によって北方におわれた。

【政治】フビライの創設した元朝は,漢地を国家根本の地とする国家であり,モンゲ=ハンまでのモンゴリアを本地とし,カラコルムを首都とするモンゴル朝とは国家の体制を異にしていた。すなわち元朝は一方においてチンギス=ハン以来の大モンゴル国の支配の枠組みを継承しつつも,一方においては中国的王朝の外貌をもち,人的資源・物的資源さらには軍事力を漢地に大きく依存した国家であったのである。フビライがかかる国家を誕生させた背景には,彼が国初の数年間モンゴリアに本拠をおき遊牧諸勢力の支持を受けた末弟アリク=ブカとのあいだにハン位継承戦争(1260〜1264)を戦わねばならなかった事情があった。結局,漢人軍閥勢力とチンギス=ハンの三弟を始祖とする東方三王家軍,さらにはチンギス=ハンの左翼軍団の中心的勢力の支持を受け,豊かな漢地の経済力を背景にしたフビライが勝利した。しかし,彼がハン位を「フビライの反乱」とも評しえる経過で実力的に把持したことは,モンゴル帝国の分裂を決定的にしてしまった。とくにアリク=ブカのハン位を承認していた勢力のうち,オゴタイ家のハイドがアリク=ブカの元朝投降後も反フビライ派の中心勢力として残り,やがてオゴタイ=ハン国チャガタイ=ハン国キプチャク=ハン国と大同団結するや,元朝を支持するイル=ハン国を巻きこんだ内戦に発展した。フビライとハイドの戦争は1268年に始まり,両雄の死後1305年に講和が成立した。この間,ハイド軍の攻勢に対して元朝は北辺に大軍を集結し,たえず防戦に努めた。ところで,この北辺防衛軍は元朝のハン位継承などにからんで内政を左右する勢力となっていった。一方,漢地内にも権益をもっていた一族諸ハン国との抗争は,諸ハンの漢地内分地支配を弱めることになり,フビライが漢地を中心とした元朝支配領域内においてフビライおよびフビライ家を支配の軸とする体制をつくりあげることを容易にした。即位したフビライは,まず中央統治機関として中書省を,地方統制のために十道宣撫司を設置し,各機関の責任者には主として自らの怯薜や潜邸以来の信臣を起用し,フビライ信臣支配体制を構築した。フビライは,さらに政権の安定をはかるために,皇帝直轄領と宗室・異姓の諸王・大臣などの投下領主領がモザイクのように分布する元朝支配領域の要所に諸子を分封し支配の万全を期した。とくに嫡出の三子を重用したが,長子早逝のため事実上の嫡男であった第二子チンキム燕王に封じ,腹裏(中書省の管轄地)と称せられた元朝中央部漢地の庶政をゆだねた。第三子マンガラは陝西・四川・甘粛・チベットなどの元朝西部支配の要として,即位前のフビライの所領京北府を中心とした地方を領する安西王に封じた。第四子ノムガンは北平王としてモンゴリア本土の支配にあたらせた。ほかに庶子クゲチを雲南王に,オウルチを西平王に,トゴンを鎮南王に封じている。かくて政権を確立したフビライは,クリルタイがハンを選んできた伝統を無視し,チンキムを皇太子に立てて元朝をフビライの子孫が継承してゆく体制を整えた。これに対し,フビライ体制の確立を不満とする東方三王家はハイドに呼応し,オッチギン家のナヤンに率いられて1287年満州で大規模な反乱をおこしたが鎮圧された。元朝は世祖フビライの治世34年間と,次の成宗テムルの治世13年間に最盛期をむかえた。とくに1279年南宋を滅ぼした際には支配領域・人民数が一挙に拡大し,元朝は中国史上はじめて全中国を支配する征服王朝となったのである。フビライの後を承け大過なく元朝を統治した成宗が1307年に死ぬと,元朝は政権混乱期に入る。最後の皇帝順帝が1332年に即位するまでの25年間に実に8人の皇帝があわただしく交代した。いずれもフビライの子係であるが,ハン位継承の制度が明確でなかったために,ハン位継承問題はつねに紛糾した。この間,元朝皇帝の権力は弱体化し,かわりに歴代ハーンの姻族フンギラト氏族勢力・北辺防衛郡勢力が皇帝擁立の功により専権をふるうようになった。順帝の治世は35年間と長いが,その前半は北辺防衛軍の精鋭であった色目人軍閥に実権と兵権を握られ,後半は紅巾軍対策に悩まされた。結局,順帝は元朝皇帝支配体制を建て直しえず,国難に有効に対処できないで,明朝によって北方におわれたのである。

【官制】中央の政府機構としては,行政・軍政・監察・財政を分担する中書省・枢密院・御史台・尚書省がおかれた。最高行政府たる中書省には吏・戸・礼・兵・刑・工の六部が隷属し,天下の政務を統轄した。なお,中書省は内蒙古・河北・山西・山東を直轄地とし,地方行政も担当した。腹裏と称せられた中書省直轄地以外の地方は,嶺北・河南・陝西・四川・甘粛・遼陽・江浙・江西・湖広・雲南の十行中書省に区画され,各行省は管下の行政・軍政・財政を統轄し中書省に隷属した。省の下には路−府−州−県の地方行政制度が整備されていた。枢密院の地方機関としては,ある地方の征討の必要上,臨時的に行枢密院がおかれることがあった。御史台には陝西行御史台・江南行御史台なる地方機関がおかれた。また,塩課を中心とする課利を統轄するために設置された河間・両淮・両浙・福建の四都転運司は尚書省に属した。ところで元朝官制の特色は,一見中国的官制機構を備えながら,人事運用面が非常にモンゴル的である点にある。第1に地方官府の長官ダルガチにはモンゴル人を任用した例に明示されている通り,百官の長はモンゴル人をもって任用する原則が貫かれていた。第2に元朝官僚制機構における枢要な官府の長官以下の重要な官職に怯薜の信臣を布置し,官僚制機構全体を皇帝自身が人的に掌握できる体制をとっていた。第3に,中央の官府の官職についている怯薜の信臣は,怯薜当番のときには怯薜として勤務した。また地方の官府の官職に任じられた者も,任を終えれば怯薜に復帰した。このため,見かけの官僚制度上当属関係にない者が薜辞制度を通して結びついており,このことが官僚制度運用に微妙に影響した。第4に,組織機構の整合性よりも人物・人脈を優先する傾向がみられた。たとえば,フビライは財務官僚アフマドを重用するあまり,彼のために中書省から財務部門を独立させて尚書省をつくり,尚書省はついには中書省を併合してしまった。しかしアフマドが失脚すると尚書省は廃されたのである。

【軍制】「フビライの反乱」とも評しえる経過で政権を獲得したフビライのもとに,チンギス=ハン以来のモンゴル軍団がいかに継承されていたのかは明確ではない。しかしモンゴル軍を天下の腹心たる河洛・山東に駐屯させ,漢軍・探馬赤軍を揚子江以北の要地に鎮戍させ,江南の各地に新附軍として採用した旧南宋正規軍を展開した元朝軍事体制からはモンゴル軍重視の姿勢がうかがえる。中央軍としては,従来,ハンの基幹兵力を構成していた1万人の怯薜のほかに,京師ならびに宮禁の侍衛にあたる侍衛親軍がおかれた。侍衛親軍は,フビライ政権の成立に深くかかわった代表的漢人軍閥史天沢の指揮下に各漢人軍閥軍の精鋭によって編制された武衛軍として発足した。対アリク=ブカ戦争においてはフビライ直属の親軍として活躍した。その後,漢人軍団数を増加させるとともに,モンゴル軍団・色目軍団を加え,元末には侍衛親軍34軍団のうちモンゴル軍団5,色目軍団12の構成になっていた。

【経済】元朝の財政政策は,税制・鈔法・専売制の三本柱よりなっていた。まず税法には金国の故地である漢地で実施された税糧・科差の法と,南宋の旧領域で実施された両税法とがあった。税糧・科差の法は1236年オゴタイ=ハンのときに制定された法をもとに多少の変更を加えたものである。税糧は丁税・地税の法とも称された。戸等制を加味した戸割り穀物税で,丁税の場合,丁ごとに粟1石,駆丁は5升,新戸の丁5升,駆丁2.5升を科せられた。地税は畝ごとに白地3升,水地5升を科率した。丁税,地税のうち各戸単位で計量し科額の大きくなる方の税を科したものが税糧である。税糧は田地を所有しない都市民にも課せられており,田賦とは相違している。科差には糸料包銀があった。1236年創設の糸料税では,1戸あたり最高11両2銭の絹糸が徴収された。なお諸王・大臣などの投下領主に分撥された投下戸の場合,11両2銭の糸料のうち8両を国家に,3両2銭を投下領主に納める制度になっていた。糸料は,その後,1260年元朝成立の際,22両4銭に倍増された。包銀はオゴタイ朝期に創設された際には戸ごとに銀6両を納入させた。1255年モンゲ朝において4両に減額され,しかもうち2両は糸絹の折色を許した。そして,1260年,残された2両銀納も鈔納に切り換えられた。旧南宋領で実施された両税法は,所有田土の広狭によって一定率の穀物(秋税)と木綿・布絹・絲綿などの土産(夏税)を徴収するものである。これは中唐以来の税法で,元朝は南宋の実施していた税法を踏襲したのである。

 次に鈔法であるが,元朝が鈔つまり紙幣単独の通貨政策を採用したことは注目に価する。1268年成立した元朝政府は,その年,中統鈔なる法定紙幣7万3,000錠を発行した。当初,政府は金銀との兌換,塩課をはじめとする課利包銀税を紙幣で納入することを認めたために,中統鈔は信用を得て大いに通行した。しかし,年間数万錠であった発行額が南宋併合に伴い年間百万錠台に激増したため,紙幣が民間に渋滞し幣価が下落してきた。このため,1287年,中統鈔の5倍の価値を賦与した至元鈔なる新紙幣が発行された。政府は至元鈔発行を50万錠前後に抑えるとともに,塩課・茶課商税を増額し,民間の紙幣の回収にもつとめたので事態は一時好転した。その後,紙幣累積による幣価下落現象は避けられなかったが,順帝の中期まで至元鈔は通貨としての機能を保持していた。専売制は元朝においても財政政策の重要な要素であった。課利による紙幣回収が通貨安定に不可欠の働きをしたことは,すでに述べたが,課利収入自体莫大な額にのぼった。たとえば塩課の場合,田賦以外の現金歳入の8割を占めていたのである。さて,かくて徴収された国家の歳入は,帝室の費用,内外百官の俸鈔,軍隊への給与,中央官庁の経費に支出されたほか,モンゴル宗室・功臣たちに対する歳賜と称する恒常的賜与と救恤のための臨時的賜与に支出された。この征服王朝らしい歳賜・臨時的賜与は課利収入の2割以上に達したと見積もられる。

【社会】元朝征服王朝としての都合上,治下の人民をモンゴル人・色目人・漢人・南人の四類に区分した。色目人は西域出身者の総称で,漢人は旧金国治下の住民であった者をさす。したがって漢人には女真人・契丹人なども含まれていた。南人は南宋の遺民をさし,蛮子とも呼ばれた。任官・刑罰・科挙などに関しモンゴル人とその協力者色目人を優遇し,南人を冷遇した。ただし,このことから直ちにモンゴル人を上層としたピラミッド型社会を想定することはできない。元朝では科挙がはとんど実施されなかったかわりに,任官に際しては根脚と称する朝廷との譜内関係が重視された。したがって漢人であってもチンギス=ハン以来のモンゴル政権に協力し功績のあった者,フビライの政権獲得に貢献した者は根脚ある者とされ,高級官僚としての世襲的地位を保障され,元朝社会の上層部を占めたのである。一方,モンゴル人であっても一般モンゴル人の負担は大きく,貧しさのために征戍にあたって妻子を売って軍装を整える者もいた。ついには漢人・南人などに売られて奴婢となっだモンゴル人子女の救恤が社会問題化している。このほか元朝は州県の良民を職業によって区分し,軍戸站戸・民戸・竃戸・儒戸・医戸などの戸籍につけ,それぞれ職能に見合った税役負担をさせる独特の戸計制度を採用していた。

【文化・美術】チンギス=ハンとその子孫によってユーラシア大陸を横断する支配圏が成立した結果,東西間の人的・文化的交流がさかんになった。名目的にはチンギス=ハン帝国の遺産を引き継いだ形の元朝においても,この傾向は維持された。たとえば,ヴェネツィアのマルコ=ポーロは17年間フビライに仕えた。またローマ教皇が派遣したフランシスコ会宣教師モンテ=コルヴィノは,1294年以来大都で三十余年間布教に従事した。『三大陸周遊記』を残したアラブの大旅行家イブン=バットゥータは,元末の中国を旅行したのである。なおイスラーム教徒が多数中国に定住した結果,漢人のあいだにもイスラーム教が浸透するようになった。さらに天文学・暦学・数学などイスラームの実用の学も伝えられ中国の学問に刺激を与えた。ただし,中国の伝統文化の保護育成に無関心なモンゴル人の支配の下で,中国の学問・芸術は全般的には停滞状態にあった。とくに科挙が元朝中期まで実施されず,儒学的教養の蓄積が官吏となるための必須条件ではなくなると,元朝儒学界の学問的レベルは低下した。そして根脚を重視する元朝では官僚として立身する見込みがなく,さりとて胥吏となるつもりもない漢人知識人たちは逸民的傾向をつよめ,詩社を結成して風雅にいそしんだ。しかし漢人知識人が官界進出の欲求不満のはけ口を文学・芸術に向けたことは,後世につながる新しい文化創造のきっかけにもなった。文学の分野では,唐詩・宋詞に比肩する文化遺産,元曲が生み出された。元曲は庶民に愛好された雑劇の脚本である。絵画の分野では,宋代まで朝廷の保護を受け中国画壇の主流となっていた院体画が衰えた。これに対し,在野の絵画革新運動は元末にいたって結実し,江南の黄公望呉鎮・ゲイサン※注1※・王蒙の四画人は文人画を大成した。彼らの確立した水墨画の主意的自然主義様式と文人士夫画精神は,今日にいたるまで文人画を中国絵画の本流とした。

〔参考文献〕愛宕松男「元の中国支配と漢民族社会」『岩波講座世界歴史』9,1970

杉山正明「フビライ政権と東方三王家」東方学報(京都)54,1982

池内功「フビライ政権の成立とフビライ麾下の漢軍」東洋史研究43−2,1984

田村實造『中国征服王朝の研究』中,1971,東洋史研究会

田村實造「元代画壇の復古運動と文人画家」史林64−5,1981

安部健夫『元代史の研究』1972,創文社

神田信夫・護雅夫編『北アジア史』1981,山川山版

片山共夫「怯薜と元朝官僚制」史学雑誌89−12,1980

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