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●ゲルマン諸国家 ゲルマンしょこっか

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 フン族の西進に圧迫されたゲルマン諸部族が,民族の大移動後に建設した国家。移動と建国の仕方によって国家の様相が異なっている。「東ゲルマン諸部族」(東ゴート,西ゴート,ブルグント,ランゴバルド,ヴァンダルなど)は,故地から遠く離れた地に移動して西ローマ帝国内に建国し急速にローマ化し滅亡した。これに対し「西ゲルマン諸部族」(フランク,ザクセン,バイエルン,フリーセンアレマンなど)は,イングランドに渡り先住ケルト人を追っていくつかの小国家を建国したアングロ=サクソン族を除いて,故地を離れることなくガリアに徐々に移住・拡大・膨張し,ゲルマン的な要素と伝統を保持しながら部族統合的国家を建設した。

【西ゴート王国(418〜711)】418年ローマ帝国と同盟関係を結び,トロサ(現トゥールーズ)を首都として王国(トロサ王国)を建設し,スペイン,南部ガリアを領す。6世紀初めフランクに敗れガリアを失い,トレドを首都としてスペインを支配する。エウリック王(在位466〜484)の治世に最盛期を迎え,ゲルマン法の最古の法典『エウリック法典』が編さんされる。西ゴ一ト王たちはアリウス派を信奉していたが,カトリックに対しても寛容な政策を行った。589年,カレッド王はカトリックを公認し,自ら改宗した。また7世紀には『西ゴート法典』が編さんされ,国内ではローマ人とゴート人の融合がすすんだ。しかし711年イスラムの侵入により滅亡する。

東ゴート王国(493〜553)】ラヴェンナを首都としイタリア半島に建国。東ゴート王テオドリック東ローマ皇帝ゼノンの委託によりイタリアに進出し,493年,オドアケルを倒して建国し,ゲルマン諸王室との婚姻政策を行ってゲルマン民族統一の政策を行う。王権は東ゴートの王でありローマ帝国の軍指揮官パトリキウスであるという二重性格をもち,ローマ人とゴート人のそれぞれの行政機構を併置する2元的統治を行い軍隊にはゴート人を,文官にはローマ人を登用した。宗教的にはアリウス派を信奉しており,初期にはカトリックに対し寛容であったがしだいに両者の対立は激化し,東ローマ皇帝ユスティニアヌス帝によって滅亡させられる。

ヴァンダル王国(429〜534)】スペインに移動していたヴァンダル族が西ゴートの侵入を受け,ガイゼリッヒに率いられてアフリカに渡り,439年カルタゴを占領し,アフリカにあったローマ領のほぼ全域を支配し,一時西地中海を制圧し,453年には郡市ローマを劫掠した。国内ではヴァンダル人はカルタゴを中心としてローマから奪った肥沃な土地で生活し,人口的にはローマ人・現住民が圧到的多数を占め,また文化的にもはるかに高度であった。宗教的にはヴァンダル人アリウス派を信奉し,ローマ人・現住民はカトリックを信奉しており,寛容な宗教政策を行うが,現住民のベルベル人の反抗を受け衰退にむかい,ユスティニアヌス帝の派遣したベリサリオス将軍によって滅ぼされる。

ブルグント王国(443〜534)】グンディオック王がローヌ河の流域を含んで,スイスのジュネーヴ湖を中心に建国。この地方にはローマ文化が早くから浸透しており,ローマ法の影響を強く受けた『ブルグント法典』『ブルグント=ローマ法典』が制定され,ロ一マ化が急速に進展する。王室が文化奨励策をとったこともあり,のちに文化発展の中心地の一つになる。5世紀にキリスト教に改宗しアリウス派を信奉していたが,ジギスムント王(在位516〜524)がカトリックに改宗したことによって,両派の争いが王室内の対立となる。534年,フランクの侵入を受け全領土を征服されて滅亡する。

ランゴバルド王国(568〜774)】アルボインに率いられたランゴバルド族が568年,北イタリアに建国。政治的には多くの小国に分裂し地方分権的傾向が強い。宗教的にはアリウス派を信奉していたが,王室のカトリック化がすすみ一般にも普及する。王室のカトリック化に反対する一派に推され,ロタリが王位につき(在位636〜652),643年「ロタリ王の勅令」を発布し,ランゴバルドの慣習法を成文化するなど文化的にローマの影響を受ける。リウトプラント王(在位712〜744)の時代に最盛期を迎え,ベネヴェント,スポレト両公国を服属させ国家の統一をはかった。しかし,アイストウルフ王(在位749〜756)の治世の対外拡張政策により,フランクのピピン(小)の干渉を招き,773年カール大帝によって征服されフランク王国に併合された。

【フランク王国】481年,クロビスがガリアを中心にメロヴィング王家を開き,初代フランク王となる。アリウス派を奉じた他のゲルマン諸国家と異なって,フランクはカトリックに改宗し,フランク王国とカトリック教会との結合の基礎が置かれ王国の発展に寄与する。751年,ネウストリア宮宰ピピン(小)は教皇の黙認のもとにクーデタをおこし,メロヴィング朝を倒し,司教ボニファティウスによって国王として塗油され,カロリング朝が始まった。ピピンはパトリキウス=ロマヌスとなり,ローマ太公領とラヴェンナ総督領を教皇に寄進し,教会国家の基礎を築く。ついでカール大帝は,800年に西ローマ皇帝として戴冠し,「カロリング=ルネサンス」の文化が栄え,ヨーロッパ世界を統一し,中世の文化・社会の基礎を築いた。しかし,カール大帝の死後内乱がつづき,ヴェルダン条約(843),メルセン条約(870)により,分裂が決定的となるとともに今日のフランス,ドイツ,イタリアの基礎ができた。

〔参考文献〕増田四郎『西洋中世社会史研究』1974,岩波書店

山中謙二『西欧世界の形成』1969,東海大学出版会

H.ピレンヌ,佐々木克己他訳『ヨーロッパ世界の誕生』1960,創文社