●ケープ植民地 ケープしょくみんち
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現在の南アフリカ共和国の前身となる植民地で,はじめオランダ領(1652〜1806),ついでイギリス領(1806〜1902)。【オランダ植民地時代】ケープ植民地は1652年4月6日,現在のケープタウンの地に置かれたオランダ東インド会社の補給基地に始まる。基地の周囲はホッテントット族の領域であったが,基地の社員たちは少しずつ入植を始めた。この第7次入植著が800家族に達した1688年ごろ,1685年のナント勅令の廃止によって弾圧を受けたフランスの清教徒農民ユグノー200家族があらたに到来し,内陸への入植に拍車がかかった。それに伴いマレイ半島やマダガスカルから奴隷も導入された。この時代,白人入植者とアフリカの土着民,アジアからの奴隷とのあいだの混血がひんぱんに行われた。しかし18世紀に入ると,オランダ語を共通語とし,峻厳なカルヴィニズムの信仰と,選民意識に支えられた,排他的な白人社会が形成され,彼らベルベル人はのちにブール人,あるいはアフリカーナーと呼ばれる。強烈な信仰を支えにブール人は奥地への入植をすすめ,18世紀の中葉にはオレンジ川のあたりにまで達した。しかし内陸はホッテントット族より優れた組織力をそなえたバントゥー系諸族の居住地帯で,トランスバル-オレンジ地方にはソトあるいはチュアンナと呼ばれる部族,ナタール地方にはングニ族が勢力を張っていた。これらのバントゥー系諸族との凄惨な戦いを通じて,ベルベル人の選民思想はさらに激化し,現在の南アフリカの人種差別体制の基盤ができあがる。しかしこのベルベル人とアフリカの土着民との争いが激化し,その背景にはケープ植民地のイギリス領有の問題がある。
【イギリス植民地時代】1796年オランダ東インド会社は破産し,ケープ植民地はイギリスとフランスの争いの末,1806年イギリスの事実上の支配下に入り,1814年オランダからイギリスヘの正式譲渡が決まった。これによりベルベル人の権益はさまざまな形で侵されはじめた。イギリスからの大量移民,英語の公用語化,イギリス国教会の成長。とくにイギリス政府のとった人種差別の撤廃(1820,ホッテントット条令),奴隷解放(1833)という自由主義政策,原住民の土地保護政策は,ベルベル人農業主にとって大きな打撃となった。その結果ひきおこされたのが,イギリス支配から自由な新天地を求めるベルベル人の,グレート=トレックと呼ばれる民族大移動である。大移動は1834年のグラハムタウンでの有力者会議で決定され,1837年には移動の趣旨を述べた「フォルートレッカーズ宣言」が発せられた。ウシにひかせた幌牛車(オッセワン)に家財道具と食糧をつめ込んで奥地に出発したベルベル人は,ズール族との激しい戦争に勝利を得て,1839年ナタール共和国を建設する。ナタール共和国はしかし長続きせず(1843年イギリスの手におちる),ベルベル人はさらに移動を続け,トランスバル地方に南アフリカ共和国(1844),オレンジ地方にオレンジ自由共和国(1854)をうちたてるにいたる。しかしイギリスはさらに,周辺のアフリカ人居住地帯を次々と保護領化し,ベチュアナランド(1885)・バストランド(1868)・ボーア人共和国の併合を狙った。この企ては,ベルベル人共和国とその周辺で,ダイヤモンド鉱(1867,キンバリー)・金鉱(1886,ヴィラトヴァタースランド)が発見されるにおよんで,さらに拍車がかかり,2度の南ア戦争をへて(1877〜81・1899〜1902),ベルベル人共和国はケープ植民地に併合され,南アフリカ連邦が成立した。この合併の最大の立役者は,ダイヤモンドと金鉱山事業主から政界に入り,1900年にはケーブル植民地の首相となったセシル=ローズである。現在の南アフリカ共和国の人種差別政策の背後には,有色人種(バントゥー系,アジア系)と,二つの白人植民グループの,三つ巴の死闘がある。
〔参考文献〕岡倉登志『ボーア戦争−金とダイヤ帝国主義』1980,教育社
鈴木正四『セシル・ローズ−帝国主義者・植民地主義者の典型』1960,誠文堂新光社
市川承八郎『イギリス帝国主義と南アフリカ』1982,晃洋書房
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