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●化粧 けしょう

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化粧とは、顔および身体に化粧料をぬって美しく魅力的にみせる行為をいう。化粧はその発展過程によって、原始化粧・伝統化粧・近代化粧に分類することができる。原始化粧は、文化の未発達の時代に、寒さや暑さなどから肌をまもるための実用的目的、宗教・宗派の識別から出発した信仰的目的、部族の識別、階級の表示などの表示的目的、治療・魔除けなどの呪術的目的、性的魅力をます本能的目的などにわけることができる。原始化粧は、現在でも未開民族にみられるような、あるいはハニワにみられるような顔面彩色で、表示・装飾の手段であるため、彩色の境界が明瞭な場合が多い。伝統化粧は、文化が発達し、地域や国々によって異なる気候風土、自然環境の違いに由来する美意識、化粧料の原料になる植物・鉱物・動物の違い、さらに政治・経済・社会・宗教とのかかわり合いによって、原始化粧から発展し、定着したものと考えられる。近代化粧は20世紀に入って、合成染料・顔料・合成香料、さらに界面活性剤・合成高分子材料などの発達によって化粧品科学は急速に進歩した。同時にデザイナーやクリエーターによる付加価値創造とあいまって、多種多様な化粧品が大量生産されるようになった。また近代化粧は、ヘアーやコスチュームとともにトータルファッションの一要素として、また自己表現の手段として発展した。

【化粧の歴史】けしょうは化粧・仮粧と書き、けそう、けわい、おつくり、などともいった。けわいは古くから化粧・髪型・服装・態度などを含めた身だしなみ、という広い意味に使われていた。わが国の伝統化粧は、飛鳥、奈良時代に朝鮮半島や大陸から伝えられた化粧品や化粧法によってその黎明を迎えた。当時の女性風俗を伝えた絵画資料としては高松塚古墳の壁画や正倉院の『鳥毛立女屏風(樹下美人図)』、薬師寺の『吉祥天女画像』などがある。とくに鳥毛立女屏風には唐代の象徴的な化粧である花鈿(かでん)・花子(かし)や靨鈿(ようでん)・粧靨(しようよう)などが描かれていて、当時の宮廷を中心とした上流階級に唐風化粧の行われていたことがうががえる。平安時代に入り、遣唐使が廃止(894)されてからは、すべての日本の文化に国風がおこった。女性の風俗も『源氏物語絵巻』や『紫式部日記絵巻』などの絵巻類にみられるように、髪型・化粧・服装、ともに唐風の動的なものから静的なものへと移っていった。この時代の洗髪や洗顔料はユスル※注1※とよんでいた米のとぎ汁で、髪油は澤(たく)と呼ばれる脂綿(あぶらわた)、紅はベニバナから抽出した具呉(くれない)やテイフン※注2※、白粉(おしろい)は水銀白粉の軽粉(けいふん・ハラヤ)と鉛白粉の鉛白(えんぱく・ハフニ)であった。お歯黒は鉄漿水(かねみづ)と五倍子粉(ふしのこ)を混ぜてつくった。公家階級は男子も化粧をしていたが、京師に仕えていた武家階級もこれを真似て化粧をした。女の化粧も男の化粧も鎌倉・室町時代には武家礼法のなかに位置づけられて発達した。江戸初期の1650年(慶安3)刊の『女鏡秘伝書』は最も古い女性の教養書の一つであるが、このなかで、とくにおしろいの塗り方について〈おしろいをぬりて、そのおしろい、すこしものこり侍れハ、見くるしきものなり、よくよくのごひとりてよし〉と薄化粧をすすめている。また1692年(元禄5)刊の『女重宝記』でも〈紅などもうすうすとあるべし〉と教え、濃くぬるのはいやしいとさとしている。延宝(1673〜81)ころの歌舞伎俳優上村吉弥は、吉弥結びという帯結びや吉弥帽子、吉弥笠などの流行を生んだので有名だが、引退後に京都四条通りに白粉店を開き吉弥白粉を発売して当った。そのほか中村数馬や2世瀬川菊之丞(路考)など数多くの俳優が新しい化粧法や化粧品の開発・宣伝に大きな役割をはたした。しかし当時のファッションリーダーたちの化粧はいわゆる白塗りであって、それが日本の伝統化粧であると考えることが間違いであることは、江戸末期の『守貞漫稿』によっても明らかである。同書によると、一般に京都・大坂の化粧は濃く、江戸は薄く、素顔も多かった。なかでも京郡の官女は濃く、遊女・芸著なども上方は濃いが江戸は薄化粧か素顔もあった。一般の庶民は普段は素顔で、晴れの日には薄化粧をしたという。このように薄化粧もしくは素顔でいられたのは、ぬか袋や生薬類を使った肌の手入れ法が普及していたからであろう。化粧(けわい)に関しての総合的な知識をまとめた本としては、1813年(文化10)刊の『女子愛敬都風俗化粧傅(みやこふうぞくけわいでん)』がある。この本はその後1世紀を超えるロングセラーとなって日本の伝統的化粧の指導書の役割をになった。一方、化粧を視覚的に伝えたのは浮世絵版画であり、実際に伝えたのは、幕末の江戸市中l,400余人いたという女髪結であった。また、日本固有の化粧として伝えられてきたお歯黒は古代から男女ともに成年式などの通過儀礼として行われてきた。江戸時代に入ると、しだいに結婚と同時に歯を染めるようになり、また出産と同時に眉を剃るようになった。もっとも末期になると、この風習も少し乱れはじめ、1870年(明治3)の太政官布告を契機として、しだいに白歯が増えて、お歯黒をする者は減った。お歯黒は臭くて渋くて、つくるのが面倒なものであるが、明治初期に即席のお歯黒ができるようになり、再び増えたかにみえたが、日露戦争の大勝以後、女性風俗も近代化の途をたどり、お歯黒人口も再び減少した。同時に無鉛白粉の開発と舶来化粧品の輸入増、それに新聞・雑誌などによる広告・宣伝の活発化によって、化粧は一般化し、化粧品産業の基礎が固まった。大正時代には化粧水・化粧液・乳液などの基礎化粧品を始め、香水・石鹸・歯磨など洋風化粧品がその種類を増し、大衆化した。昭和に入るとクリームやルージュが種類をまし、さらに第二次世界大戦後はメーキャップファウンデーション、アイメーキャップ類、フレグランス(芳香製品)類、男性化粧品と、化粧品も化粧法もまったく世界共通のものとなった。

【中国】長沙馬王堆漢墓出土の奩(れん)に収められた櫛・笄(こうがい)・白粉筥・口脂筥などによって2世紀ころの中国の化粧品の発達を知ることができる。黛で眉を描くことは前漢から記録があるが、後漢に入ると眉を青黛で青く描くようになり、さらに額に黄粉を塗る額黄(がくおう)、眉間に赤く丸を描く的(てき)、唇は朱脣や黒脣が行われていた。これらは仏教の影響によるもので仏粧(ぶっしよう)と呼ばれていた。唐代に入るとさらに化粧は華やかさを増した。的はさまざまな紋様を描く花鈿や靨鈿に発展した。しかし唐の滅亡とともに、これらの華やかな化粧も姿を消した。

【西洋】古代エジプトでは炎熱から肌をまもるための香脂や、眩しい太陽の光とハエや眼病から目をまもるためにぬった緑色顔料(孔雀石の粉末)によるくまどりなど、実用目的の化粧があった。また、ミイラをつくるための香料は防腐作用が目的だったが、その芳香をしだいに宗教儀式や日常生活に利用するようになった。エジプトの原始的化粧は古代ギリシア・ローマに伝わり、ヨーロッパにおける伝統化粧の素地となった。ローマ皇帝の妻ポッパエア=サビナは、肌を白く美しくするため、ロバの乳風呂に入り、パンとロバの乳でつくったパックをするなど、ヨーロッパにおいても肌を広くすることが美容の第1の目的だった。顔には鉛白(塩基性炭酸鉛)のおしろいを塗り、唇には天然の辰砂(硫化水銀)を塗っていたので化粧の有害性が批判されたが、それでも16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは化粧がいっそう華やかになり、ムーシュとかパッチとよばれた“つけぼくろ”がはやった。フランス革命以後は自由主義・ロマン主義の影響をうけて濃厚な化粧はすたれ、19世紀に入ると青白いまでの顔が清楚な美しさとしてはやった。しかし第一次世界大戦以後は女性の社会進出もあって、日焼けした小麦色の肌に健康美を求めるようになり、さらに第二次世界大戦以後のファウンデーションの開発によって、一般の女性も肌色を自由に楽しむことができるようになった。

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