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●華厳宗 けごんしゅう

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大蔵経のなかの『大方廣佛華厳経』通称“華厳経”を所依の経典として成立している宗派。インドでは華厳経のなかの『入法界品』や『十地品』の梵文が現存し、世親(330〜400)もこれにふれているが、一宗一派として成立したようすはない。中国では、十三宗の一つとして台頭し発展した。すなわち、東晋の覚賢三蔵(359〜429)が華厳経を訳して以来、講説されることが多くなり、唐にいたって一宗として成立し、いわゆる“華厳の五祖”が輩出した。異説もあるが、第1祖杜順(558〜640)、第2祖智儼(ちごん)(602〜668)、第3祖法蔵(643〜712)、第4祖澄観(738〜839)、第5祖宗密(780〜841)がそれである。第3祖と第4祖とのあいだに時間的な隔りがあるのは、第3祖の弟子の慧苑がその師の説に背いて独自の説を立てたため華厳宗の宗勢が一時衰えたが、法蔵の没後生まれた澄観が慧苑の説の非を指摘し、法蔵の学説の正当を唱えて宗勢を復興したので第4祖とされている。しかし、華厳宗の教学を大成したのは『華厳五教章3巻』、『華厳経探玄記 20巻』の著者、第三祖賢首大師法蔵であるところから、一名“賢首宗”ともいわれた。中国の華厳宗は宋代に再び盛んになり、浄源はインドの馬鳴(めみょう)、龍樹を加えて“華厳の七祖”を唱え、洛陽・長安を中心に華北一帯で行われていたが、清代には衰微した。朝鮮半島の華厳宗は新羅の人、義湘(ぎしょう、625〜702)が唐に渡り、長安で智儼から華厳を学び、帰国後大伯山に浮石寺を創建したのに始まる。その後、高麗時代になって均如(917〜973)や義天(1055〜1101)が出て全盛期を迎えたが、以後禅宗に押されて振るわなくなった。現在では元暁律師(617〜?)を開祖とする“大韓仏教華厳宗”があり、120余の寺院を擁している。日本へ初めて華厳の教えを伝えたのは、唐のドウセン※注1※で736年(天平8)に華厳経の疏(しょ、註釈書)をもたらしているが、法蔵に学んだ新羅の僧の審祥(?〜742)は、来日して大安寺に住していたが、勅命により740年(天平12)、奈良の金鐘道場(現在の東大寺法華堂)で華厳経を講したのをもって“南都六宗”の一つとしての華厳宗の開宗としている。初め法相を学び、ついで審祥についで華厳を学び、華厳宗第2祖となったのが良辨(ろうべん、?〜773、宝亀4)で、聖武天皇よりその学徳を讃えられ、東大寺建立の際には初代の別当に補せられ、僧正に任ぜられた。以来、東大寺は華厳宗の本山として今日にいたっている。947年(天暦1)、光智(897〜979)は東大寺に尊勝院を建立して華厳修道場を開設、芋厳教学の振興につくしたが、その門流が鎌倉時代に入ると“本寺東大寺系”と“末寺高山寺系”に分かれ、本寺系に凝然(ぎょうねん、1240〜1321)、末寺系に高辨(明恵上人、1173〜1232)が出、前考が中国五祖にもとづく伝統的教学を保持したのに対し、後考は法蔵のころ華厳学に別の見解を示した李通元(635〜730)の学説にもとづく実践修道論を唱え、華厳宗も栄えた。しかし戦国時代になると兵火にあい、民心もまた平安・鎌倉の両時代に台頭した新しい仏教の流れに傾き、江戸時代には徳川幕府寺檀制度のもとに宗勢は振わなかった。明治初期の混乱期、一時、浄土宗に属したこともあったが、1886年(明治19)独立し、1952年(昭和27)には華厳宗の認証を受けた。約50カ寺の寺院が所属している。華厳宗の教義は釈尊が悟りを開いた直後、その自内証を最初に開示されたもので、あまりの難解さに舎利佛や日蓮のような大弟子でさえその内容をよく理解できなかったと伝えられているが、全世界の万象はすべて毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)の顕現であるとし、一塵のなかにも全世界を宿し、一瞬のなかにも永遠を含むと説く重々無盡の縁起の教えである。東大寺の大仏(毘廬舎那仏)はこの教えを具現したもので、その台座の蓮弁には造仏当初の、多数の世界やその中心の仏が刻まれ、聖武天皇が東大寺を諸国の国分寺の総国分寺として、国家鎮護を祈った理想がよく示されている。

〔参考文献〕『奈良仏教』日本仏教基礎講座1、1979、雄山閣

高峯了州『華厳思想史』1963、百華苑

鎌田茂雄『中国華厳思想史の研究』1965、東京大学出版会

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