●下剋上 げこくじょう
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日本の中世において、下位者が上位者をしのいで、上位者の地位に立つ現象。主従関係・惣領庶子関係そのほか、階層の高下を問わずすべての上下関係が逆転することで、とくに中世後期の室町戦国時代にはこの現象が著しく、この時代を“下剋上時代”とも呼ぶ。しかし「下剋上」の語義については特定された意味をもち古代に遡るものである。この語の初見は中国隋の蕭吉(しょうきつ)の『五行大義』(こぎょうたいぎ)にあるらしい。この書によれば、五行相剋(火剋金、金剋木、木剋土、土剋水、水剋火)について論じたあと、人間上下間の相剋に論及して“上剋下”(上下に剋つ)は順であるが「下剋上」(下上に剋つ)は剥(易の卦の名、凶相を意味する)でよくないといっている。この場合、著者はこの語を熟語としてでなく普通の句として用いたかと思われる。この『五行大義』は757年(天平宝宇1)11月、日本で陰陽生必修の書物に指定され(『続日本紀』『類聚三代格』)、陰陽五行思想がその後中国よりも日本で盛行した結果、本書は日本の陰陽家に親しまれ、このあいだに“下剋上”も熟語化し、凶相として理解された。これに対して“上剋下”は順当で当然の現象であるため卜占の対象にもならず、熟語として発達しないで終わった。“下剋上”の語がみえる文献を例示すると、『水鏡』前田本に、恵美押勝が主君である孝謙天皇の女体に近づき、“下剋上”の謀叛の企てをはかった罪を述べている部分がある。『源平盛衰記』には平清盛が後白河法皇を幽閉しようとするわけを息子の重盛に説明するなかに、〈近来いとしもなき者どもが“下剋上”して折を待ち時を伺って種々のことを院に勧め申している〉とある。また日蓮は平安時代以来法華経の地位が他の諸宗に侵されようとした過去をかえりみて〈王法も下剋上して、王位も臣下に随ふべかりしを〉天台宗の学者たちがかろうじて世の滅亡を防いだ、といい(1277、建治3年6月、下山御消息)、大王であるべき法華経の地位が危うくなる時勢を〈国々の民の身として天子の徳を奪ひ取は下剋上〉と世の堕落をなげいている(1280、弘安3年8月、内房女房御返事)。また播磨太山寺文書の護良親王令旨(1333・元弘3)令には、〈北条高時一族が武略をもって朝威を軽んじ当今皇帝を配流し国を乱すのは“下剋上之至”である〉と記している。『建武年間記』に収められているかの有名な「二条河原落書」の〈下剋上スル成出者〉の句も辛辣な世情批判の表現である。『太平記』巻27「雲景未来記事」は〈王道は平家の末に尽き、後醍醐天皇にいたって公家までもすたれ、末世濁乱の“下剋上”の世になったため政道もなく世上も静まりがたい〉と結んでいる。同書巻36「畠山道誓事」には関東公方足利基氏が武士たちの圧力に屈して道誓の執権をやめさせたことを〈下として上を退る嗷訴、下剋上の至かな〉と怒ったとある。庶民の僣上についても下剋上の語が用いられた。大和国平野殿庄の預所平光清は「庄民の納めた年貢が光清に着服され領主にとどいていない」との庄民の訴えに対して、「それは領主と自分の問題で百姓らの口入れは“下剋上”の申状だ」といった。(「東寺百合文書」および1310年(延慶3)平光清重陳状案)。また近江菅浦では1352年(観応3)、菅浦百姓が延暦寺宮仕を打擲した暴行について〈“下剋上”の至り常篇を絶つ〉と非難している(菅浦文書)。下剋上は以上の事例のように、本来これを非とする思想であるが、中世末期にはこれを客観視し事実を事実として首肯する傾向も盛んとなった。中世には仏教とくに浄土真宗にみられるように人間平等思想が展開している。また『塵塚物語』の「山名宗全と或大臣問答事」にある宗全の言のように、貴族に対して下位にあった武家が勢力を得たのは“時”すなわち時代動向の必然とする論理が展開されているなど、下剋上の盛行を考えるうえで注目すべき点がある。
〔参考文献〕村岡典嗣「下剋上と武士道」『日本思想史研究第三』1948、岩波書店
福尾猛市郎「下剋上の語義とその展開」『福尾猛市郎日本史選集』1979、同先生古稀記念会
