●毛織物工業 けおりものこうぎょう
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羊毛やその他の獣毛を原料とする織物業が,重要な産業として歴史上に認められるのは中世のことである。北イタリアのフィレンツェで羊毛をイギリスから輸入して織物とし,これをヴェネツィア商人たちが売り捌き,13世紀末には最盛を誇ったという。フランドルでも,その後,毛織物工業が発展し,製品をおもに東ヨーロッパに輸出した。しかし15世紀ごろからは,イギリスの毛織物工業が圧倒的優勢をもって市場を圧した。イギリスは毛織物工業を中心として,このころ産業革命を達成し,羊毛輸出から毛織物輸出へと転じた。毛織物が日本へもたらされたのは16世紀中ごろ,ポルトガル船が,イギリス製か,フランドル(オランダ)製の製品を領主たちへの贈り物用として,ごく少量もってきたのが最初であろう。毛織物は,当時大名などの陣羽織や槍印の袋など,さらには置き物の下じきに使用される程度であった。1641年(寛永18)8月29日に出島に入港したオランダ船の舶載した毛織物をみると黒ラーケン,黒バーイ,ゴロフクレン,ベルペトワン,ラシャ,黒カルサイなどとあり,しだいに種類の増加したことが知られる。これらの商品は唐物屋たちが扱い,1648年(慶安4)にはラシャ製のかっぱの使用を奢侈をもって禁じている。安政の開港後,毛織物輸入は増大し,ことに横浜港が圧倒的に多く,ことにゴロフクレン(モスリンの前身で,のちには粗悪なものとして輸入されなくなった)の比重が高く,当時女子の羽織や,帯などに使用された。明治期には全輸入額の1〜3割は毛製品で占められ,ことにラシャとモスリンの輸入が多かった。ラシャは,軍服の製作のため,のちには官員や学生の制服のためにセルヂス(サージ)が輸入されたりした。また,着尺セルとして和服に採用されて普及した。モスリンは,肌着や帯紐の材料としてひろがっていった。なお,官営千住製絨所が1879年(明治12)に操業を開始し,その技術を一般に公開したので民間企業の勃興を促進することになり,1900年代前後に東京モスリン・毛斯綸紡織・日本毛織などの羊毛工業会社が設立されて発展を促した。こうした企業のほかに,明治末年ごろから従来の織物業からも毛織を導入しつつ転換をはかる機業地が現れ,その代表的産地は,尾西(びさい)地方の着尺セルを中心とする地域と,毛布を主とする大津を中心とする地域である。第一次世界大戦中には,ロシアからの軍服の受注などもあって発展したが戦後の不況で毛糸,モスリン,ラシャとセルヂスは輸出が,3分の1以下に激減し,企業の整理・集中が進み1920年(大正9)には日本羊毛工業会というカルテルが組織された。この組織はモスリン会社6社の発起で12社が参加して結成された。12社とは,日本毛織・東洋毛糸・東洋モスリン・東京毛織・東京絹毛・東京モスリン・大阪毛織・栗原紡織・満蒙毛織・後藤毛織・上毛モスリン・毛斯綸紡織で,1カ年の生産額2億円,従業員約4万といわれる。 昭和に入ってからも不況状況は続いたが,国内消費がしだいに増加してきた。風俗現象として文化住宅,文化服,モボモガという洋風文化の本格化,さらにはサラリーマンの増大によって洋服の中心時代へと変りつつあった。これに伴う和服から洋服へと転換,つまり和服用のモスリン・着尺セルから洋服地への転換があった。この変化の波に乗って尾西地万の中小機業が発展した。この地方へ大企業,大東紡織・日本毛織・大同毛織(当時は栗原紡)が進出したこともあって,1932年(昭和7)以後,国内毛織物生産の5割以上(セルヂスは9割以上)を占め,中小機業を中心として一大生産組織を形成した。これに対し毛布や起毛品を中心として泉州機業地が形成され,一部は洋服地生産をしていた。第二次世界大戦によって毛織物工業は壊滅的影響をうけた。1957年(昭和32)には生産額では戦前の段階をこえたが,ナイロンの進出,エステル系・アクリル系の繊維の生産による新合成繊維の本格的生産に伴って毛織物のシェアが低下しつつある。