●啓蒙専制君主 けいもうせんせいくんしゅ
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18世紀の啓蒙思想の影響を受け,啓蒙思想を政治において実践しようとした絶対主義国家の君主。啓蒙絶対君主ともいう(歴史の各時代に見られる専制君主一般と,ヨーロッパ近代に特有な絶対君主を概念上区別するためには“啓蒙絶対君主”のほうが適当である)。18世紀後半に輩出するが,代表的にはプロイセンのフリードリヒ2世とオーストリアのヨーゼフ2世。ドイツを中心に,ヨーロッパの“周辺部”ないし“後進国”に多く現れたことが特徴である。これらの国では市民階級の成長が遅れ,イギリスやフランスでは市民階級の思想として開花した啓蒙思想が,ここでは君主や教養ある官僚層をとらえ,支配者による“上からの近代化”を実践させることになった。啓蒙専制君主は,ほぼ共通して社会契約論的国家観に立ち,理論的には宗教的寛容・法の前の平等・公正な司法・国民経済や国民教育の振興など,総じて“公共の福祉”の実現をめざすが,その実践と効果は,もちろん国によりかなりの相違がある。【啓蒙専制君主の実績】フリードリヒ2世(在位1740〜86)は即位以前からヴォルテールらフランスの啓蒙思想家と親密な関係をもち,即位の年に出版された著書『反マキァヴェリ論』において“君主は国家第一の下僕”という有名なことばを残した。国王自身が“啓蒙”されていたこと,また彼が国王としての全生涯を通じて“国家”の富強のために文宇どおり献身的に働いたことは確かである。宗教的寛容や言論の自由,司法制度の改善や『プロイセン一般国法典(原題)』(1794年発布)の編さん事業など,実際に行われた啓蒙的施政も少なくない。しかし反面,身分制度の温存や貴族の偏重,またベルリンのアカデミーには多くのフランス人の学者を招聘しながら国民の教育にはあまり力を入れなかったことなど,啓蒙の原理に反する傾向もまた顕著である。啓蒙思想の実践という点ではヨーゼフ2世(在位1765〜90)のほうが徹底しており,彼は1780年以降の専制統治期約10年間に,宗教的寛容,ユダヤ人の解放,イエズス会の解散,修道院領の没収,農奴制の廃止,貴族の特権の廃止など,数多くの急進的改革を一挙に行おうとしたが,古来の慣習を無視した改革の押しつけや画一的中央集権主義,また民衆の日常生活への過剰な干渉は,かえって激しい反抗を招き,その晩年から没後にかけて,多くの改革が撤回されざるをえないはめになった。なおヨーゼフの後を継いだ弟レオポルト2世(在位1790〜92)も,即位前のトスカナ大公時代には自ら立憲制の導入を企画したほどの啓蒙君主だったが,オーストリアの君主としては,フランス革命の時代状況と早逝のため,見るべき実績は残していない。なおドイツ以外ではロシアの女帝エカチェリーナ2世(在位1762〜96)が啓蒙専制君主の一人とされているが,即位当初はともかく,晩年の彼女はむしろ反啓蒙的専制君主である。またフランスにも,君主専制によって重農主義的自由主義を実現しようとする啓蒙専制主義的思想があり,これは財務総監テュルゴによって代表されたが,君主ルイ16世自身は啓蒙専制君主と呼べる人ではない。したがって啓蒙専制君主の出現はドイツを中心とする現象であるといえよう。とくにドイツにおいては,大国のみならず小国においても,重農主義の思想により農奴制を廃止したバーデン辺境伯カール=フリドリヒ(在位1746〜1811)や,ゲーテの主君で学芸の保護者として知られたザクセン=ワイマール公カール=アウグスト(在位1775〜1828)ら,小国の限界のなかで“福祉国家”の実現に努めた啓蒙専制君主が少なくなかったことは注目に値する。
【絶対主義と啓蒙専制主義】啓蒙専制(絶対)君主も,あくまで絶対主義(絶対君主政)をよりどころとするものであって,一般の絶対主義と啓蒙絶対主義を明確に分けることは必ずしも容易ではない。もともと絶対主義国家と啓蒙思想は,教会の権威や貴族の政治的影響力を排除しようとする点では共通性をもち,啓蒙専制君主はその最後の局面を代表するともいえる。しかし18世紀の後半になると啓蒙思想が絶対主義批判にむかうため,啓蒙専制君主が君主制擁護のために時代に逆行する措置をとることもあった。ただ国家観の変化は明らかに認められる。君主は“国家第一の下僕”として,国家の下に位置づけられるのである(ルイ14世のことばと伝えられる“朕は国家なり”と対比せよ)。これは単に君主個人の思想の問題にとどまらず,ここからして官吏もまた,“国王の役人”から“国家の役人”へと変化する。啓蒙専制君主の政治自体が教養のある啓蒙官吏層に支えられてもいたが,この官吏層が一歩すすんで国王の恣意的支配から自立するとき,プロイセンに典型的に見られるように,啓蒙専制主義は官僚専制(絶対)主義に転化するのである。