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●啓蒙思想 けいもうしそう

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 17世紀後半のイギリスに発し,18世紀のヨーロッパで主流となった思潮。人間の思考を非理性的拘束から解放し,理性そのものに内在する原理によらしめようとする。カントの有名な定義によれば〈啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から脱却することである〉〈従って“自らの悟性を活用せよ!”−これが啓蒙のスローガンである〉(『啓蒙とは何か』)。人間の理性的思考を束縛するものとしては,第1に宗教的偏見や迷信があり,啓蒙思想はまず宗教・教会批判として現れるが,それはやがて宗教のみならず,人間の生活にかかわるすべての領域における権威を疑問に付し,理性にもとづく新しい宗教観・自然観・社会観・国家観を展開するにいたる。宗教における理神論や寛容の思想,諸学問における科学的合理主義,人間の自然権と社会契約論,また人間社会の進歩発展の思想などがそのおもな思想的遺産である。啓蒙思想は19世紀に入るとロマン主義や歴史主義の思想によって批判されるようになるが,それによって啓蒙思想の影響力が失われたわけではなく,その影響はさまざまな形で今日の思想界にも及んでいる。

【各国の啓蒙思想】啓蒙思想の発祥の地はイギリスである。ここではまずニュートンの力学が新しい自然観を生み出し,ついでロックが啓蒙思想の基礎を築いた。彼は宗教的には理神論,哲学上は経験論の立場に立つが,国家論においては主著『市民政府二論』(1690)によって人間の自然権および社会契約の思想を展開し,イギリスの名誉革命体制を理論的に弁護して,政治的自由主義の最初の理論家となった。しかし啓蒙思想が政治的に最も大きな影響力をもったのはフランスである。ここではイギリスの啓蒙思想がヴォルテールの『哲学書簡』(1734)やモンテスキューの『法の精神』(1748)によって移植され,さらに全面的に発展させられるが,旧体制下のフランスにおいて,啓蒙思想は何よりも,行きづまった絶体主義体制に対する批判の武器として機能したのであった。ディドロダランベールらの『百科全書』(1751〜72),またルソーの『社会契約論』(1762)がフランス革命を思想的に準備したことは,しばしば指摘されるところである。それに対してドイツの啓蒙思想は,レッシングのような多面的思想家を生んだものの,全体として政治批判の力とはならなかった。反面ドイツにおいては啓蒙思想が絶体主義国家の君主や官僚に影響を与え,プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世らの啓蒙専制君主が現れている。なおカントは『純粋理性批判』(1781)や『実践理性批判』(1788)によって理性的合理主義と経験論の可能性と限界を明らかにし,啓蒙思想の大成者であるとともにその克服者であるとされている。

【社会的・政治的背景】啓蒙思想は近代市民階層の自己意識の表現であり,市民階級の成長をその社会的背景として発展した。この思想がまずイギリスに萌芽し,ついでフランスで開花したことは,両国における市民階級の成長と対応した現象である。それに対してドイツでは市民階級の未成熟が君主と官僚によって補われたといえよう。なお啓蒙思想と絶体主義国家のあいだに相関関係があったことも留意されなければならない。宗教戦争の混乱を収めた絶体主義国家は,宗教を政治から切り離すことによって啓蒙思想の前提をつくり出し,また公権力を独占することによって,“国家”とは異なる,私人の活動領域としての“市民社会”の観念を生み出した。啓蒙思想家はこの“市民社会”を代表し,当初は絶体主義国家と連携し,のちにはそれに敵対しつつ,宗教的・社会的・政治的権威を批判したのである。その活動の場は,一般に大学よりもアカデミーであり,まだ多くのサロンやコーヒー=ハウスが“世論”形成の場となった。この時代に教養層のための多くの雑誌が創刊されたことも啓蒙思想の普及に役立った。またフリーメーソンなどの秘密結社が果たした役割も見逃されてはならない。