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●刑罰(中国) けいばつ

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国における刑罰は,きわめて古い時代から法的に体系化され,周辺の諸民族にも大きな影響を与えた。一般的には,刑罰は報復の段階から贖罪あるいは賠償ヘ,さらに政治的権威によって科せられる実刑へと発展してきたといわれているが,中国では非常に古い時代から実刑主義にもとづく刑罰が体系化され,歴史的に顕著な特色となっている。すでに殷代の甲骨文には「ゲッケイ※注1※」(あしきり)を表す文字があるとされるが,刑罰の体系が存在したかどうかは明らかでない。文献史料では『書経』の「呂刑」にみえる五刑が最も古い段階の刑罰体系を示している。五刑とは「大辟」(死刑),「宮刑」(男子は性器の切断,女子は性器の閉鎖)・「ヒケイ※注2※」(あしきり)・「ギケイ※注3※」(はなそぎ)・墨刑(いれずみ)をさすが,ほかにも「ジケイ※注4※」(みみきり)などの刑罰があったらしい。それらの刑罰は死刑と身体損傷刑に大別できるが,後者は刑罰を科せられた者を識別し,共同体から排除することを目的としている。春秋時代の諸国物語『国語』魯語には,五刑として大刑・其次・中刑・其次・薄刑が伝えられている。前2者はそれぞれ甲兵,斧鉞を用いるとされており,この当時には戦争と刑罰が未分化であったとする説がある(兵刑未分論)。また,『春秋左氏伝』などにみえる刑罰の具体例の多くは報復的色彩が強く,実刑の体系はまだ確立していなかったらしい。これがしだいに体系化されたのは戦国から漢代にかけて,すなわち専制国家の出現を待たねばならなかった。戦国,秦漢の刑罰は,労役刑などの自由刑の発達によってしだいに残酷な身体刑が廃止される傾向にあった。湖北省雲夢県で出土した秦の法律には,「城旦」(男子に築城の労働を科す),「舂(しょう)」(女子に臼で穀物をつかせる)などの労役刑が非常に細かく規定されており,その多くは「コン※注5※」(髪を剃る),「鉗(かん)」(かせ)などを併科されるものであった。漢代に入ると残酷な身体刑への批判が高まり,文帝(在位前180〜前157)のころに肉刑(身体損傷刑)が大幅に廃止されて,自由刑と「笞刑(ちけい)」(むちうち)が罪の軽重に応じて科せられる傾向が強まった。しかし他方において「宮刑」(司馬遷の例が有名),「腰斬(ようざん)」(斬台の上で腰を断つ)のような極刑もしばしば科せられており,過渡期の様相を呈している。南北朝の北魏時代には流刑が刑罰の体系に加えられ,隋唐の律令にいたって笞・杖・徒・流・死の律令的五刑に整備された。笞はむちうち10〜50,杖は同じく60〜100,徒はl〜3年の強制労働,流は2,000〜3,000里の流刑,死は絞と斬の2種類である。この制度によって中国前近代の刑罰体系は完成されたということができる。律令的五刑制は日本の大宝律や養老律,朝鮮の高麗朝(918〜1392),ヴェトナムの黎律(15世紀ごろ編纂)にも大きな影響を与え,東アジア全域にひろまった。その後中国の歴代の王朝は唐律の刑罰体系を踏襲したが,若干の修正が施された。五代,宋以後は刺字(いれずみ)が復活して流刑などに併科され,明清の律には「凌遅処死(りょうちしょし)」(肉をそぎとり,腸をひき出すなどして受刑者をなぶり殺す死刑の方法)が絞・斬の上に加えられ,とくに親殺しや大逆罪のような重罪に科せられるようになった。清末から民国にかけて,西洋の法学の影響から刑法の改正が論議されたのち,中華民国刑法典が制定され,笞,杖を廃止して自由刑を中心とした体系が整備され,人民共和国が成立してからは刑罰と教育を組み合わせた労働改造も行われている。中国の刑罰は非常に残酷な極刑を含んでいるが,その実施にあたっては「刑は刑なきを期す」といわれるように,一罰百戒の効果によって犯罪を予防することが期待され(威嚇主義),また客観的規準によって量刑を定めること(罪刑法定主義)が不可欠な手続とされてきた。歴代の王朝において,とくに刑罰を規定した律の体系が発達したことは,この二つの原則がつねに重視され,行政の根幹を構成するものと考えられてきたことを物語っている。

〔参考文献〕仁井田陞「刑法」『中国法制史研究』1959,岩波書店

同『中国法制史』1952,岩波書店

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