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●刑罰 けいばつ

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 犯した犯罪行為に対する代償としての,法的な制裁を,刑罰という。国際法上の犯罪に対する刑罰である戦争犯罪などとか,あるいは,ある社会における制裁などのように,国家的な刑罰以外のものもあるが,ふつうは,国家によって科せられる制裁を,刑罰という。

 そして,形式的な意味における刑罰とは,上述のうちにおいて,とくに〈刑罰〉という名称を,法的に与えられているものをいう。現代においては,固有の刑法にかんするかぎり,かならず犯人に対してのみ,刑罰は科せられる。ただし,そうはいうものの,行政的な取締罰則のうちには,たとえば,違反者である従業者のほかに,またはその代わりとして,事業主を罰するといったような場合がないわけではないが(両罰規定,代罰規定),これは取り締まりの目的を達成するための,特殊の例外にほかならない。刑罰の本質については,とくに教育刑論と応報刑論とのあいだにおいて,論争が,はげしくたたかわされている。

 いろいろ残酷な刑罰が,それらの種類としては存在しているが,それでも現在においては,ずいぶん合理的であるとともに,人道的な刑罰に変わってきているといえるであろう。

 アメリカ合衆国の連邦および諸州憲法の流れをくんでいる日本国憲法においても,〈残虐な刑罰〉の絶対禁止を宣言している(日本国憲法第36条)。身体を傷つける刑罰すなわち身体刑は刑罰における歴史上においてみても,かなり大きな役割を果たしてきたのであったが,それも,やはり今では,なくなってしまった。苔(ち)刑は,身体刑の一種というべきであろうが,わりあい近年までイギリスにおいて存続していたが,やはり廃止された。

 かつて関東州(現・中国東北部,遼東半島)においても,日本は,やはり苔刑を行っていた。これは,クーリー(苦力)などは生活程度がひどく低かったので,いわゆる懲役刑などでは,刑罰の意味をなさなかったためであるともいわれている。去勢や断種を認めている立法例も存在するが(断種を,日本における優生保護法も認めている),日本のそれは,保安処分としてであって,決して,身体刑としてではないのである。

 刑罰の種類は,現代の諸国においては,大別して,つぎの4種類すなわち〈生命刑〉,〈自由刑〉,〈財産刑〉,〈名誉刑〉に分類することができるであろう。このうち,[1]生命刑とは,今さらいうまでもないことであるが,すなわち死刑を意味している。そして死刑の執行方法は,現代においては,絞首および斬(ざん)首,銃殺,電気殺,ならびにガス殺などが行われていて,日本においては,これらのうちの一つである,監獄内での絞首による,死刑を執行することにしている。[2]次に自由刑とは,文字どおり,自由を剥奪(はくだつ)し,または制限を加える刑罰をいうのであって,その第1は,拘禁すなわち自由を剥奪する刑をいうのである。自由刑としては,拘禁刑だけを,日本の刑法においては認めている。それは,懲役(ちょうえき),禁錮(きんこ)および拘留(こうりゅう)が,日本における拘禁刑である。

 懲役および禁錮は,詳細にみると,無期および有期の二つの種類に大別することができ,有期の場合は,1カ月以上15年以下とされている。ただし,これに加重および軽減のときには,上限は20年まで上り,下限は1カ月以下にすることができる。懲役および禁錮は,どちらの場合においても,受刑者を監獄に拘置することになるのであるが,懲役の場合においては定役(刑務作業)が課されるのに対して,禁錮の場合においては,定役すなわち刑務作業は課されないのである。

 拘留の期間は,1日以上30日未満(すなわち最大限29日)とされていて,拘留場に拘置されるのである。なお,とくに注意すべきことの一つとして,いわゆる勾留(こうりゅう)は拘留と違って刑ではなく,未決拘禁である。現代における,もっとも重要な刑罰である自由刑,とくに拘禁刑は,数多くの問題を含んでいる。たとえば,その一つの例として,いわゆる短期自由刑の問題が,やはり残されているといえるのではなかろうか。すなわち,このような短期間の拘禁は,受刑者にとって有害であるばかりか無益でもあると考えられるとし,このような短期間の拘禁に代わる,もっと有効な処分が何かないだろうかといった問題も論じられている。短期自由刑の弊害を防止することもその趣旨の一つであるとされているものに,刑の執行猶予の制度があったとさえいわれている。

 不定期刑の問題が,自由刑には,また存在する。すなわち日本においては,定期刑(たとえば6年の懲役というように刑期をきめる)のが原則であって,少年だけには相対的な不定刑(たとえば1年以上6年以下の懲役という言渡しをすること)が認められている。これを,さらに常習犯人にまで拡張し,さらに,あるいはこれを一般化することが議論の焦点とされている。

【上代の日本における刑罰】宗教と法とが,まだ分かれていなかった日本の上代社会においては,“つみ”(犯罪)とは,神々が忌(い)みきらう穢(けがれ)を意味していたのであった。このことは,天津罪(あまつつみ)とか,国津罪(くにつつみ)として,いろいろと列挙されている罪(つみ)をみれば,おのずから明らかであるだろう。そして刑罰は,このような観念に対応して,神の怒りをなだめ,人間がおかしたもろもろの不浄を取り除くことによって,とうとい神々の怒りをなんとかして,なぐさめるための禊(みそぎ)および祓(はらえ)ならびに神逐(かんやらい)などがあったのである。しかしながら,だんだんと世の中も進んでいって,ついに3世紀のころにおいては,ようやくのことで,宗教と法との分離が,しだいに進むにつれて,いわゆる現世的な“まがつみ”(犯罪)と,宗教的な“つみ”とが,区別されるようになっていき,それに伴って,死刑および流刑ならびに追放,さらに貶(へん)姓とか(いれずみ),および配賤(はいせん)ならびに没収などの現世的な刑罰も,この時代において,ようやく,実施に移されるように変化をとげていった。そして古来から,日本においては,よく使用されている,“つみ”ということばは,刑罰と犯罪とを,ほとんど同時に意味したことばであって,すなわち,たんに刑罰だけに相当する国語は,その当時においては,存在していなかったのであった。いっぽう,普通のばあい,各国における実情をよくよく考察してみると,報復をもって,すなわち刑罰の起源とするのであるが,日本においては,この点を,立証することは,こんにちにおいても,できないのである。

【上世の日本における刑罰】国家権力の確立はいうにおよばず,刑罰体系の整備もまた,律令制が7世紀において,ようやくのことで成立するとともに,できあがってきている。そして笞および杖ならびに徒,そして流および死という五つを数える刑を,おもな刑とした。これにくわえるに,付加刑として,没官および移郷ならびに換刑(すなわち,一定の刑の執行に代えて,他の刑を執行する処分)として,加杖および留住役ならびに贖銅(すなわち罰金刑)が存在したのであった。

【中世の日本における刑罰】鎌倉幕府が,12世紀の末に,成立するとともに,いわゆる封建制度に,移り変わって行ったのであったが,このことはまた,これまでの,国家における統一的な刑罰権に対して,これらを分裂させてしまうという結果を招来したのであった。それは,公家法(くげほう)および本所法(ほんじょほう)ならびに武家法(ぶけほう)という,これら三つの法系が,それぞれ,並らび立つことになってしまった。したがって,これが当然のなり行きとして,刑罰においても,それぞれ三つの法系によって,めいめいが,ちがうようになってしまった。しかし,このような矛盾は,いつまでも,許されることではない。そして,武家法がやがて,中世を代表するとともに,ほかの2法系をも,圧倒するとともに吸収することによって,この事態に対して,結末をつけたのであった。

 すなわち鎌倉幕府は,律における五刑のうち,〈斬〉(ざん,死刑)および遠流(流刑)の2種類の刑罰だけを用いることにきめ,ほかの刑罰は廃止してしまった。

【近世の日本における刑罰】いわゆる戦国時代が,15世紀半ばからはじまったので,さしもの幕府の強力な権力も失われ,分国法が各地に成立して,分裂の極端な有様にまで,法権は到達した。この当時に行われた死刑としては,〈磔(はりつけ)〉および〈さかさ磔〉ならびに〈串(くし)刺し〉さらには〈のこぎり引き〉〈牛裂き〉〈車裂き〉〈火あぶり〉〈釜煎(かまいり)〉,〈簀巻(すまき)〉などの残酷な死刑や,〈指切り〉および〈手切り〉ならびに〈鼻そぎ〉〈耳そぎ〉など残虐な肉刑が行われるとともに,〈けんか両成敗〉が天下の大法として行われるようになったのも,戦国時代からであった。

【近代の日本における刑罰】明治の初年においては,近代的な西洋における刑法が移入されて,これらの影響をこうむって,日本の刑罰も人道化され緩和化されるとともに,また一方では中国法系の律が,ふたたび実行された時代でもあった。

 1868年(明治1)の4月閏ないし8月において,明治新政府は,“仮刑律”を編集し,これらの刑罰は,笞および徒ならびに流と,そして死の4種を原則とすることにきめた。同年10月末日および11月13日の“達し”は,さらに刑罰を緩和し,徒刑制度を普及させ促進させようとはかった。1870年(明治3)における“新律綱領”は,笞・杖・徒・流・死の五つの刑を正刑としたが,1872年(明治5)4月には,“懲役”を科すことをもって,笞と杖に代えたし,また同じ年において,当時としては,非常に進歩的な“監獄則”を制定した。1873年(明治6)における“改定律例”によって,これまで行われてきた笞・杖・流すべてを廃止して,懲役とした。徒刑とか懲役刑が,刑罰体系のなかでも,重要な地位を占めるようになったのは,このような経過をとおしてであった。しかし士族や,官吏にかんする特別な刑罰は,なかなか廃止されないでいて,1880年(明治13)に制定された旧刑法によって,近代的な刑罰体系が,やっと実現したのである。

【東洋】刑法および損害賠償制度の史的な発達は,東洋の各民族においても,西洋の各民族における場合とだいたいは同じようであった。その起原は報復のなかにあり,政治的な権威が確立していくのに伴って,まず最初の報復から,それに代わる贖罰(賠償)の制度ヘ,さらにそれから,実刑主義的刑法へと発達していったものであるといわれている。

【西洋】西洋においても,刑罰の歴史は,やはり人間の社会的な共同生活の歴史とともに始まるといえるであろう。大綱においては,刑罰の歴史は,西洋においても,いろいろの民族の法のあいだに共通する点があると,よくいわれる。いまだに原始的な氏族社会とか部族社会などの,いわゆる私刑罰から始まって,国家的な公刑罰へと進んでいき,さらには死刑や身体刑を主とする刑罰の体系から,自由刑財産刑をその主要なものとする方向へ,さらには,刑罰の目的については,犯罪についての応報や威嚇による一般予防を目的とする刑罰から,犯人の改善および矯正や,あるいは,これによる特別予防を目的とする刑罰へと,だんだんと進んでいったのであった。以上は,西洋における刑罰の,概括的であるとともに,一般的な発達の過程であるといえるであろう。なおキリスト教会および教会法が,刑罰およびそれらの執行方法の緩和と合理化のために,かなり多大の影響をあたえた事実が存在している。

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