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●芸能 げいのう

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 芸能とは本来芸と物事がよくできる才力を示す能という語の熟語である。最も古い用例は,中国前漢時代の史書,司馬遷の『史記』に〈博開芸能之路,悉延百端之学〉がある。下って,中国周代に,貴顕紳士たる者が修得すべき六つの教養科目−六芸(りくげい)が制定されたのが芸能の概念に相当しよう。内容は礼(礼儀作法)・楽(音楽と歌舞)・射(弓術)・御(馬術)・書(学問)・数(算数)−のちに,射・御・数にかわって,詩(文芸)・易(陰陽道)・春秋(歴史)−を含む。日本の文献では,大宝律令(701)中の医疾令(原典は遺失し,大宝律令の解釈書『令集解』中に引用されたものであるが)に,〈凡国医生,業術優長,情願入仕者,本国具述芸能,申送大政官。〉の語句がみられ,医術の技能を示している。中世,能の大成者世阿弥は著書にくりかえし芸能の2字を記しているが,狭く能の演技そのものをさす場合と,広く人の心を和やかにするもの一般を芸能と呼ぶ二様がある。〈抑,芸能と者,諸人の心をやはらげて,上下の感をなさん事,寿福増長のもとで,遐齢延年の法なるべし,きわめきわめては諸道悉に寿福延長ならん。〉(『花伝書』奥儀篇)は後者の意味。江戸時代にはいると,もっぱら音楽・歌舞を中心とする技芸をさして芸能と呼ぶが語感は屈折する。幕府の人民統制と教化に採用された儒教思想の禁欲的倫理道徳観のもとで,芸能は前代までと異なり広く庶民の楽しむところとなっていたが,(武家に保護された能楽を除いて)当時,社会秩序を乱すおそれのあるものとして蔑視された。明治・大正・昭和のはじめまで蔑視は続いたが,芸能の語にかわって,演劇・演芸の2語が使用された。前者は比較的価値の高いとみなす芸能に,後者は比較的価値の低いとみなす芸能にもちいられた。第二次世界大戦後,芸能の2字が復活したが,ほぼ前代の演芸に相当し,今日みるような芸能の語感は,1960年前後からである。では,芸能とはいったいいかなるものか。舞楽・能狂言・歌舞伎といった伝統芸能から舞踊・演劇・コンサート・サーカス・義太夫節などの語りもの,講談・落語,はては蝦蟇の油売りなどの香具師による大道芸まで示し,民俗芸能・郷土芸能民間芸能と呼ばれるものもある。以上に等しく共通する性格は何か。芸術は今日次の四つに分類される,芸能・文芸・美術・映画である。芸能の他の3者と異なる点は,他の3者がそのものさえあればいつでもどこでもl人でも何回でも鑑賞できるのに対して,芸能は特定の時と特定の場所での1回性のもので,創られると同時にただちに消滅していくものであり,また人々の集団がいてはじめて成立しうる,その意味ではきわめて社会的な営みである点で,他の3者と区別される。定義して「芸能とは,演者の生身の肉体あるいはその動きや音声またはその延長にあるものを主たる表現媒体や手段として,観客の面前で,観客との独特な1回性の呼応関係によって,幻影を生むところの,労働と相補的なあるいは対峙の位置にある社会的営みである」。発生史的観点からは,芸能は−あくまでその表だった性格による便宜的な分類であるが−「民俗芸能」,「娯楽としての芸能」,「芸術としての芸能」に分けられる。

【民俗芸能】科学の未発達な時代,人々は神がいると信じ,神に祈願することで自分たちの幸福を確実なものにしようとした。そこで神事という公式の祈願行為がなされたが,呪術者や神職らの特定の専門家が秘めやかに施行する神事が延長拡大され,そのなかに素人である村人たちが参加するマツリの形態が採られたところに,芸能の第1歩が始まる。祈願の目的は,およそ次のように分類できる。[1]長命,あるいは生命の強力であることの祈願,[2]五穀豊穣の祈願,[3]厄神払いの祈願,[4]その他,豊漁・豊猟・戦勝などの祈願である。[1]の目的のためになされるマツリの代表が神楽(かぐら)である。神の座−神座(かみくら−神楽の語源)を設けて神を招き饗宴と楽舞でもてなし,長命を願う。神楽は,その発生地や固有の形式から[A]出雲流神楽,[B]伊勢流神楽,[C]巫女神楽,[D]獅子神楽などに分けられるが,広く全国的に分布する。[2]のためのマツリには,正月と5,6月に行われる御田植のマツリがある。正月には豊作祈願の予祝呪術として田耕・種蒔・苗取・田植・刈入などを模擬的に演じる。5,6月には田のなかに田の神を降ろし,実際に早乙女たちが出て田植えをするが,このとき囃子をそえ,早乙女たちの田植えの動作にリズミカルな踊りの振りが加わることが少なくないが,芸能化されて田植踊や田楽(もともとは,太鼓のお囃子を示したが,やがてその囃子に合わせての曲芸や練行列までも意味する)になる。[3]の形式としては,疫病や災難をもたらす悪霊を威嚇するものと,もてなし喜ばせておいて神送りするものとの2様がある。祇園祭などの鉾を仕立てての祭礼のきらびやかな練行列(地方によっては,華やかな風流傘がこの鉾に相当する)は,後者であり盆踊りも一種の神送りである。これに対して,大松明を焚いての追儺(ついな)行事は前者で節分の豆撒きはこれに属する。後者の悪霊を魅きつけるための美しくきらびやかな風情や演出は風流(ふりゅう)と呼ばれ,御田植神事に入りこんでその芸能化を促進したばかりでなく,一般の風俗にも大きな影響を与え,近世,歌舞伎の成立の思想的柱となるものであった。以上が民俗芸能(郷土芸能民間芸能というもほぼ同義)の基本のかたちであるが,いずれにしても,祈願行為が特定少数の専門家まかせから,不特定多数の村人たちが参加し,演じる者とみる者に分担分化したマツリに,神事としての神聖な性格のほかに,より美しく飾りたい,より魅力的にみせたい,力強く演出したいという様式化原理が働いて芸能への道をたどる。

【娯楽・芸術としての芸能】民俗芸能が神事性を維持し(原理的には),演じる者とみる者が未分化な批評性を介することのない芸能であるに比して,演者と観客が分離したところに「娯楽としての芸能」や「芸術としての芸能」が成立する。労働の場において労働を促進したり,労働の苦しさを慰めるためのさまざまな試みが(たとえば民謡のように)労働の場を離れた時と所において繰り返され,人々の賞翫の対象となることで洗練され芸能化の道をたどる。「娯楽としての芸能」のもう一脈は最初から娯楽としてプロやセミプロの手になるものである。その母胎は奈良から平安初期にかけて,中国をへて日本に移入された百戯・雑戯あるいは散楽といわれるものである。西域・インド・インドシナなどの芸能が,当時世界最大の文化国家の一つ中国の唐で,中国本来の芸能と交流合体して百戯と呼ばれ日本に輸入されたが,内容は広く曲芸軽業・手品幻術・滑稽物真似・歌舞・寸劇にわたる。これらは農閑期に村人たちの目にふれるところとなり,民俗芸能はもちろんのこと“労働脈”からくる「娯楽としての芸能」の内容を豊富にし,技術的向上の刺激となったものである。中世にこうした芸能の育成に最大の力があったのは寺社であり,神事や仏の縁日・仏像開帳などの折,客集めのアトラクションとして芸能人が雇われ人々の耳目を楽しませた。だが,中世では概して祭礼日などの少数特定日をのぞけば労働の日であり,芸能の興行はない。いつでもある特定の場所に行けば芸能がみられるようになるのは,商業経済が発達し芸能が商品となり興行が企業として成立する近世に入ってからのことである。「娯楽としての芸能」と「芸術としての芸能」の区別は,形態的につけられるものでも価値の優劣でもなく,創作姿勢にある。感傷的慰安・快楽をこえてむしろ精神的な深さや豊かさをめざすところに「芸術としての芸能」があり,その意味からは,民謡はもちろん,手品でさえ芸術と呼ぶことは不可能でない。

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