●荊襄の乱 けいじょうのらん
アジア 中華人民共和国 AD
中国,明代中期に河南・湖北・陝西三省交界山岳地帯で発生した流民の反乱。荊州府と襄陽府が在地の要衝であったため荊襄の乱と呼ばれる。明代も中期にいたると,過重な賦役の科派や大土地所有の展開などの要因によって大量の農民が土地を失い,流民として各地を放浪することとなった。上記の地帯には多くの流民が新たな生活圏を求めて流入したが,同地は明初より治安上の理由から人民の立ち入りが禁止されていた,いわゆる禁山区であったために,流民層と王朝権力の利害が鋭く対立した。その結果,1464年(天順8)には劉通を指導者とする大規模な流民の蜂起が行われた。反乱は1466年(成化2)に一応鎮圧されたが,4年後にも李原を指導者として再び蜂起,このさいに反乱鎮圧を担当した項忠は,流民の原籍地への送還を断行して大量の死者を出したため,政府内部からも項忠の苛酷な処置に対する非難が高まり,明朝は流民を在地への附籍を認める方向に政策を転換することとなった。