●景教 けいきょう
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ネストリウス派のキリスト教の中国における呼称。【景教の発展と衰亡】景教に関する資料のうち,781年(建中2)に建設された「大秦景教流行中国碑」は最も簡潔に唐代の景教に関する教勢を伝えている。碑文によれば景教の宣教師団は635年(貞観9),長安(現在の西安)に到着し,太宗の公認を得て伝道の基礎をかためた。次の高宗も保護政策をとり,各州に景教寺院を建造させ,阿羅本を崇敬して鎖国大法主としたことは重要である。則天武后の時代に一時衰えた景教は玄宗の時代に再び勢力を回復し,長安の景教寺院である大秦寺には,唐朝皇帝の御真影が下賜された。安史の乱後も景教は唐朝の保護政策のもとに順調な発展を遂げていたが,武宗が即位するに及び845年(会昌5),有名な排仏の詔が出され,仏教だけではなく,景教も他の外来宗教とともに弾圧されることとなった。当時中国には4〜5万人ぐらいの景教徒がいたと推定されているが,大部分は改宗し,一部はトルキスタンに逃れ,一部は北方のモンゴル方面に逃れてほとんど四散してしまった。五代より宋にかけて,景教徒は中国本土にはほとんどそのあとをとどめなくなったが,元代になると再び勢力を回復した。元朝は景教徒に対し,仏教徒などと同様に租税免除の恩典を与えている。鎮江や揚州に教会が建設されたことは,景教の復興がかなりのものであったことを示している。
【景教の経典】現在まで約10部の存在が知られている。これは長らく敦煌の石窟寺院に収蔵されていたものが,中央アジアの探険家であるスタインやペリオらによって発見されたものである。それらのうち,「序聴迷詩所経」は前半で神のいましめや教義を述べ,後半ではイエスの生涯を要約している。内容で注意すべきは,天子の尊崇とか孝道の重視というような儒教的道徳が強調されていることである。これは中国に入ったネストリウス派が,本来のものとはかなり異質な新しい教理を盛り込んだことを示している。次に「尊経」は礼拝式用の讃文であるが,注意すべきことの第1は,モーゼ,ダヴィデ,パウロをはじめとするキリスト教の聖者が,仏教的な法主の名で漢訳されていることであり,景教の仏教化の具体相を示している。また大秦寺の僧景浄によって翻訳された景教経典35部の名称が列記されていることも注目すべきである。彼はおそらく中国人信徒の協力を得て,中国の風俗習慣や伝統的宗教との調和を考えつつ,これらの経典の翻訳を進めたと考えられる。以上により,景教の宣教師が可能な限りにおいて中国に同化しようとした努力を知ることができる。
【景教の特質】景教はその成立事情によって明らかなように,カトリックとはかなり異なった教義上の特色をもっている。佐伯好郎の研究をもとに,それらを総合し,以下の10項目にまとめてみることにする。[1]マリアを神母として拝することに反対。[2]十字架の符号は用いるが,十字架以外の形像は使用しない。[3]死者の霊魂慰安の祈祷を禁止せず,また死後贖罪説を認めない。[4]いわゆる変質説をとらず,聖餐式では,「キリスト霊在す」の説を主張。[5]聖職者の8階級を確立。[6]聖職者の妻帯を禁止しない。[7]断食を励行する。[8]教皇は菜食を原則とするが,以下の聖職者の肉食は禁止しない。[9]教皇の就任は管長3人の互選で決定する。[10]礼拝の用語はシリア語を原則とするが,ギリシア語またはラテン語の使用を禁止しない。以上が景教の特質であるが,このほか唐代の景教宣教師がその方針として中国依存主義をとっていたことは注目すべきことがらである。この理由として考えられるのは,第1には,ペルシア帝国崩壊後,景教を支援する本国がなくなり,中国を第2の祖国と考えるようになったことがあげられる。第2には,中国文化の強大性に対抗するよりは,むしろこれと融合するほうが得策であることを覚えるようになったことが推測される。
〔参考文献〕佐伯好郎『景教の研究』1935,東方文化学院,東京研究所
羅香林『唐元二代之景教』1966,香港,中国学社
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