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軍制 ぐんせい
【現代各国の軍制】以上はもっぱら西洋史に立って,古代から第二次世界大戦前まで,時代を追いながら,実際にとられたおもな軍制について考察したのであるが,結論は,『軍隊の歴史』を著述したジョルジュ=カステランが,その結語で述べているのと同様,軍制の歴史も,けっして規則正しい発展のなだらかな曲線を示すのではなくて,国民的軍隊制度か,あるいは職業的軍隊制度か,また徴兵制とするか,それとも傭兵制とするかの二つの極端な型のあいだをゆれ動く一種の振動を示すものである。そのうえ各国は,その特有の発展を示すのである。このような特質にかんがみ,現代の軍制を説明するに当たっては,その一般論は無理で,かつ意味も少ないので,これを避け,もっぱら各国別にその軍制の現状を,とくに特有事象に留意して述べることとする。
アメリカの軍制について,まず兵役制度をみると,現在は全志願兵制度である。ここにいたるには,一部先に述べたが,賛否両論があり,したがって紆余曲折をへている。大筋を顧みると,第二次世界大戦に備えた徴兵法は1947年失効した。そこで志願制のみによる募集が行われたが,志願者の数が激減し,編成定員を充足することができなくなった。そのため1948年選抜徴兵法が制定され,2カ年の時限法が数次にわたって延長され,1951年6月には一般軍事訓練服務法が制定されたが,1973年6月以降全志願制となり,今日にいたっている。この思い切った改革は,ヴェトナム戦争によって一段と評判の悪くなった徴兵制度を廃したほうが,むしろ志願兵が得られやすいとのニクソン政権の政治判断によるものであるが,それは今のところ当たっている。また国防機構としては,1947年7月の国家安全保障法が現在にいたる基本をなしている。同法令はその序文に次のごとく根本政策を述べている。〈米国の将来の安全保障のための広範な計画を準備し,国防長官の指揮,権限および管理のもとに,陸軍,海軍(海軍航空隊および海兵隊を含む),空軍の省を含む国防省を準備し,国防長官の文官指揮(シビリアン=コントロール)のもとに3軍の協同と指揮統一を準備し,しかしこれは併合されるものでないことを定め,統一された管理のもとに軍隊の効果的指揮と作戦を準備する〉。すなわちこの法令によって,国防省・統合参謀本部・国家安全保障会議が正式に発足し,また陸軍航空部隊が独立した空軍となった。かくて米国軍は陸海空の3軍および各州の州兵部隊よりなり,大統領はその最高司令官である。国防長官は国防に関する一切の責任を負い,3軍の管理の調整ならびに指揮の統一にあたる。統合参謀本部議長は,大統領および国防長官に属し,3軍の統帥事項の調整と戦略指揮の統一に任ずる。陸・海・空長官は各軍の業務ならびに作戦計画の実施を可能にするように各軍を管理するとともに各軍部隊を統括する。陸軍および空軍参謀長・海軍作戦部長は,それぞれ最高軍事顧問として各軍長官に属し,主として軍令事項を担当し,かつ統合参謀本部の会議に参画する。大統領を議長とする国家安全保障会議は,安全保障に関する最高決定機関であり,委員は副大統領・国務長官・国防長官・国内政策を代表する国防資源委員会委員長であるが,大統領の希望により,上院の承認を得て,その他の人も委員に任命できる。国家安全保障会議のもとに中央情報局(CIA)があり,国家の安全保障に関する情報活動の助言を行う。
イギリスは既述のごとく,志願兵制度をとったが,第一次世界大戦においては,1916年1月,18歳から41歳の男子全員に兵役の義務を課する徴兵法を成立させた。1918年4月には兵役義務年齢が51歳まで拡大された。大戦終了後1919年11月,徴兵法はその効力を停止し,1927年完全に消滅した。第二次世界大戦においては軍事訓練法と国民服務法が制定されたが,戦後は志願制度に復帰した(1962年には正規軍からは国民服務兵は姿を消した)。1918年4月,第一次世界大戦の最中に空軍が独立し,以後陸・海・空軍3軍編成となった。最高司令官は名目的には国王であるが,実質的には首相である。国防機構は1964年4月の改組が,その後の基本となっており,首相を議長とし,副首相・外相・国防相などを委員とする国防・海外政策委員会で国防政策が決定される。国防大臣は議会に対してこの会議の決定を実行する責任を負う。また国防省が国軍の指揮監督に任ずるが,国防省の運営の中心は国防会議で,その構成は,国防大臣を議長とし,陸海空軍担当の各政務次官・制服の国防陸海空軍参謀総長などで,実質的にはこれが国防について国王と議会に対して責任を負っている。
ソヴィエト軍の統帥権は憲法上ソヴィエト最高会議に属しているが,実質的には党の完全掌握下にある。国防相は国防の責任者であり,地上軍・空軍・海軍・ロケット軍・防空軍を統轄する。国防省は作戦用兵をつかさどる陸海軍参謀本部・軍内の党活動および政治教育の統元締である政治総本部のほか,監察総本部・後方総本部・技術および行政総本部および地上軍・空軍・海軍・防空軍各総司令部からなる。このうち地上軍総司令部は総司令官のもとに総参謀部・各兵科司令部・各総本部があり,その機構は国防省に類似している。総司令官は,編制・人員配置・戦則・訓練および管理を所管し,各部隊に命令を発する。ただし作戦指揮は行わない。そのほかの各軍総司令部もこれに準ずる。以上が国防省の機構の大要である。国防大臣は理論的には作戦上の指揮権を有している。しかし,実情は,この権限は陸海軍参謀本部にあり,参謀本部は国防大臣の名において,軍集団・軍管区・独立軍・艦隊および小艦隊に作戦命令を発する。各総本部・総司令部は下級司令部部隊に対し技術上の統括系統をもっている。たとえば,後方総本部は連隊にいたる各級の後方担当の長を統制する。兵役は義務兵役制をとっており,1967年改正の新兵役法によっている。同法の要点は[1]在営年限を短縮して陸・空を2年,海軍を3年とする,[2]召集年齢を一律に18歳に低下する,[3]学生青年に対する軍事予備訓練の実施,の3点である。
【日本の軍制】まず日本軍制の沿革を略述する。1882年(明治15)に出された『軍人勅諭』は,その冒頭において,〈我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある〉と断じ,つづいてそれが神武天皇の親征に始まったが,以来2,500年のあいだには兵制にも変化があり,中世以降は,世の乱れとともに兵馬の権は武家の手におちた。しかし今やそれを回復し,神武創業の昔に帰ったと兵制の沿革を述べている。確かに大化の改新(646)以前にあっては,天皇自ら兵権を掌握しており,大化の改新では,兵役が定められ,成年男子3人に1人の割で兵士として服務した。彼らは一定の期間,各地の軍団において訓練を受け,その一部は京にのぼって皇居を警備する衛士となり,あるいは大宰府へくだって北九州沿岸の防人となった。しかしこの律令の時代においても,皇族や貴族のあいだでは私的武力を蓄える傾向が著しかった。これらの武士は分散し,やがて有力な豪族を中心とする結合を各地につくった。そのなかで桓武平氏と清和源氏が有力となったが,1184年(寿永3)源頼朝が全国総追捕使に任ぜられてからは兵権はすべて彼に帰し,以後700年間武家時代が続く。その政治権力は鎌倉幕府から室町幕府へと移るが,応仁の乱(1467〜77)を契機に,いわゆる戦国時代を現出した。やがて織田・豊臣両氏によって統一され,ついで徳川家康によって再び幕府が開かれた。この間の軍隊はすべて主従関係を統率原理とする私的武力であった。たとえば元寇(1274年の文永の役および1281年の弘安の役)にさいし,当時の執権北条時宗は,その家来である九州・四国・中国地方などの御家人を動員したのである。江戸幕府では侯藩の制を定めて兵制を整えたが,その後泰平が続くにつれ兵備はゆるんだ。幕府の末期,外国との交通が開かれるに及び,西欧の兵制を導入し制度は一変した。しかし藩によって異なり,統一した軍制をみるにいたらなかった。
1867年(慶応3),徳川第15代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古し,新政府が発足すると,最初の官制において海陸軍務課が設けられ,ついで軍務官,1869年(明治2)兵部省となった。1870年,諸藩県の常備兵力および編制を定めるとともに諸藩の制度を一定するため,10月2日,兵制に関し次の布告が発せられた。〈兵制ノ儀ハ皇国一般之法式可被為立候得共,今般常備兵員被定候ニ付テハ海軍ハ英吉利式,陸軍ハ仏蘭西式ヲ斟酌御編制相成リ侯条先ツ藩々ニ於テ陸軍ハ仏蘭西式ヲ目的トシ,漸ヲ以テ編制相改侯様被仰付侯事〉。1871年には廃藩置県があったが,それと同時に,諸藩の所有に残されていた艦船はすべて政府に移籍されることになった。翌1872年兵部省を廃して,陸軍省・海軍省を置く。1873年徴兵令を制定して国民に常備兵3年,第1後備2年,第2後備2年,17歳から40歳までの男子全部を国民兵とする兵役義務を課した。同年全国を6軍管に分け,各軍管に鎮台を置いた。東京,仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台がそれである。海軍は少し遅れ1886年全国の海岸および海面を5海軍区に分け,各海軍区について,横須賀・呉・佐世保・舞鶴・室蘭の各地に鎮守府を置くことを定めたが,室蘭はついに実現しなかった。これより先,1878年参謀本部を設置し,それまで兵部卿および陸・海軍卿のもとに統一されていた軍政・軍令のうち軍令面を独立させた。また1882年に『軍人勅論』が下賜され,さきにも述べたとおり『天皇の軍隊』たる由来を明らかにし,軍人のあるべき姿,よるべき徳目を明示した。1889年に帝国憲法が公布され,次の各条によって軍隊を明確に位置付けた。〈第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(いわゆる統帥大権である)第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(いわゆる編制大権である)第32条 本章ニ掲ケタル條規八陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ抵触セザルモノニ限リ軍人ニ準行ス(権利義務に関し軍人の特殊地位を定めたものである)第60条
特別裁判所ノ管轄ニ属スベキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム(軍人に対する特別裁判所としての軍法会議を認めたものであり,1921年(大正10)以後,軍法会議が設置された)〉。1893年海軍軍令部を設置し,海軍軍令機関を独立させた。同時に戦時大本営条例を制定し,戦時の軍令系統を参謀総長のもとに統一したが,1903年同条例を改正し,参謀総長,海軍軍令部長ともに天皇に直隷することとした。以上のごとく,ひたすら天皇の軍隊として,同時に国民的軍隊として軍制を整え,質量両面から充実をはかった日本軍隊は,ジョルジュ=カステランのいう〈数世紀を一飛にした発展〉を逐げ,太平洋戦争開戦直前には,地上約60師団,航空約150中隊を基幹とする大陸軍と,約480隻,約180万tの艦船,約3,200機の飛行機を基幹とする大海軍を保有するにいたった。
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