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軍制 ぐんせい

 一国の軍備のあり方,すなわち軍備の建設・維持・管理・運用に関する制度をいう。したがってそれは,軍隊のあるところ,すなわち国家とともに存在しており,国家の発展段階・国情・経済構造・国際情勢に応じて制定されている。内容は一般に,軍政事項(軍の編成・維持・管理に関する事項)と,軍令事項(軍隊の指揮運用に関する事項)に大別され,またそれに関連して軍事司法事項(軍秩序の維持・軍関係の犯罪の処理に関する事項)に及ぶのが各国の通例である。

【軍制の歴史の大要】古代国家の代表的なものとして,まずスパルタおよびアテナイの両都市国家をあげるとき,その軍制上の特徴は,ともに国民(市民)軍隊としての制度をとったことである。これをスパルタについてみれば,スパルタ男子は,生まれるとすぐ本当の徴兵検査を受け,将来軍人となることができると認められた者だけが,生きる権利をもったのである。そして7歳(母親のもとから離されたとき)から軍事的教育が行われ,20歳から30歳まで兵営内に住み,60歳まで兵役の義務を負うのである。彼らは平時も動員されたままで,召集ラッパの吹鳴に即応できるよう都市に住まなければならず,またつねに軍服を着ていた。その教育は厳格に軍事的なもので,苦痛や飢餓に耐え得るように鍛練され,知的教養は若干の戦争詩を吟誦するだけに限られた。この厳しい試練に堪えられなければ市民団に入ることが拒否され,劣等者という不名誉な身分に落とされた。いわゆる〈リュクルゴス〉制のもとに,極度の軍国主義的支配体制により,前6世紀ころにはギリシア第1の強国となり,ペルシア戦争では,スパルタ陸軍はアテネ海軍とともに大いに奮戦した。その軍隊編成は歩兵が主力で,戦闘単位は640人からなる大隊で,前5世紀ころにはこの大隊が七つあった。のち二つの大隊を合わせて旅団ができ,また最も勇敢なスパルタの若人から選ばれた300人の国王親衛隊が編成された。そのほかにスパルタ人将校の指揮を受ける奴隷・傭兵・同盟都市の兵士からなる特別部隊があった。この国家即軍隊の体制を維持し,市民即兵士の生活を支えるため,ペリオイコイ(隷属民)およびヘイロタイ(奴隷)などの非市民群が苛酷な労働に従事した。ペロポンネソス戦争(前431〜前404)でアテナイに勝ってギリシアの覇権を握ったが,前386年テーベに敗れ,以後衰退する。その主因は市民兵士が極度に不足し,本来敵であるヘイロタイを軍隊に採用せざるを得なくなったことにあった。アテナイも国民皆兵であるが,スパルタと異なり,ペリクレス(前495〜前429)時代には兵役制度をもっていた。現役には,18歳から20歳までの青年が2カ年「新兵」として服し,ついで20歳から49歳までは「重装歩兵」に,最後の50歳から60歳までは「老兵」に編入された。したがって平時には,「新兵」だけが現役にあって,軍隊の大部分は帰休兵となった。軍隊には財産により区別された階級制があり,最も富裕な者(ペンタコスイオメディムネス)の大部分は3段橈船の船長となった。「ヒッペィス」(財産別クラス分け中の第2クラス)は騎兵となり,「ゼウギタイ」(財産別クラス分け中の第3クラス)と富裕な居留外人は重装歩兵となり,「テーテス」(最も貧しいクラス)の大部分は艦船乗組員(軍艦のこぎ手)となった。市民軍の司令官は「将帥」で,そのなかの有名な1人にテミストクレスがあげられる。彼は海軍主義者で,彼の建設した海軍が,ペルシアの大艦隊をサラミス湾の海戦(前480)で破り,ペルシア戦争で大きな役割を果たしたので,戦後のアテナイでは,軍艦のこぎ手として働いた無産の階層の発言権が強くなり,ペリクレスのもとで民主政治が完成した。しかしそのアテナイ海軍は,ペロポンネソス戦争において,作戦指揮の不適切が主因でついにスパルタ海軍に撃滅され,アテナイの敗北を決定づけた。

 次にロ−マの軍制についてみると,前5世紀ころは,本質的に国民軍隊となっており,前275年には義務兵役制度がとられた。しかしイタリアの支配者となった以後は,ローマは,同盟諸国に対して兵士の供出を要求した。これがローマ市民軍すなわちレギオンとは区別された同盟軍であり,前3世紀末ごろには,その割合は,ローマ人部隊43%に対し,同盟軍57%という実態となった。その後,前2世紀ころからはオリエント諸国からの傭兵の徴募が始まるが,うち続く戦乱に備え,軍隊を常備する必要から,服役期間を20年とする志願兵制度がとられた。その結果,軍隊はしだいに国民的性格を失い,代わって常備軍的性格を深めてゆき,ついに皇帝のための私兵と化した。ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスはかかる軍隊に支えられて皇帝になった。すなわち,その軍隊は市民軍のほか同盟軍部隊,さらに皇帝の親衛隊が加わり,全部で約35万に達したが,これらはすべて有給であった。ローマの版図が最大となったトラヤヌス帝(98〜117)の時代は,ローマの軍事組織が絶頂に達したときでもあるが,その兵力は40万であった。しかしこの程度の兵力では蛮族からの圧迫に対抗するのに十分でなかった。そのため,早くも次のハドリアヌス帝以後は,ローマ帝国の政策は防衛的なものに限定され,もっぱら「リメス」と呼ばれる要塞線に依存しなければならなくなった。このような兵力の激減を生じたのは,軍隊の徴募を大土地所有者が応募兵として供出した農奴に限らざるを得なかったことにあり,その背景には,ローマ人が富に堕落し,兵役は不名誉なもの,軍隊は無価値なものとみるようになり,兵役忌避の傾向が強くなったからである。その結果,ローマの軍隊は多数の蛮族傭兵に依存することとなり,「ローマの軍隊には,たった1人のローマ人しかいない。それは皇帝だ」とさえいわれるようになった。476年,その傭兵軍隊の指揮官であるゲルマン人オドアケルは西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルスを廃位して西ローマ帝国を滅ぼした。またこの間,235年から285年までの50年間はいわゆる「軍人皇帝時代」を現出した。これは文弱な皇帝アレクサンデル=セウェルスが部下の兵士によって謀殺されたことに端を発し,以後各地に駐屯する軍隊がその軍司令官を勝手に皇帝に擁立して争ったからで,わずか50年間に18人の皇帝が交代し,うち天寿をまっとうした者は1〜2名に過ぎず,ほかはほとんど暗殺された。この現象は,無力無能の皇帝と,皇帝に対してなすべき奉仕を忘れ,ただ自己のためにのみ戦う存在に堕落した軍隊の相乗効果によるものであり,ローマ以前の諸帝国の衰亡にもみられる一つの図式である。そしてそのとどめを刺すのが外国人傭兵軍隊であり,ローマはまさにこの型にはまったのである。

 10世紀ころまで,軍事体制は,国家の兵士と私兵という軍人の二つの型のあいだで動揺していた。そのうち,後者が優勢となり,さらに支配的となったところに封建体制がつくられた。これは,原理的には,ローマ帝国のような強大な中央権力が崩壊すると,人々は誰もが,自らの生命財産の安全と保護を身近の有力者に求める。そしてそれを保証できる人を主君とみ定め,その主君に対して忠誠な奉仕を誓約して主従関係を結ぶ。その関係は,主君が従者に対して封土,知行を恩貸する制度を伴うことによって強められるのである。こうした社会では,国家的な機能・制度はすべて主君と従者との私的な主従関係に埋没されるが,それを荘園や独立的軍事支配権に再現するとき,いわゆる封建国家が形成される。それゆえ,封建制度即軍事制度とみることができる。そしてその軍事制度はすなわち私兵制度となる。ところで封建軍隊の特徴は騎兵が主力となったことである。それは4世紀ころから近東方面で蹄鉄と鞍と鐙が用いられ,アラビア人やフン族が騎馬戦主体となったので,これに対抗するため騎兵へ移行したのであるが,問題は騎兵には多額の費用がかかることで,諸侯の保有する騎兵数は,そのため削減された。そのこともあって諸侯の行う私的戦争における参加兵力は100名を超えることはなかった。騎兵に軍隊の機能発揮の基本的役割を置く封建制軍隊制度は,11世紀中ごろまで続くが,以後は君主制へと進化する。

 封建制から君主制へと移行した第1の原因が商工業発達に伴う経済的基盤の変化にあることは,ここに詳述するまでもなかろうが,それによって封建諸侯が没落するのに対し,さらに十字軍・百年戦争・ばら戦争が拍車をかけたのであった。とくに百年戦争において長弓が威力を発揮し,加えて砲が現れて,騎士の一騎打ちという封建制の戦闘様式を過去のものとした意義は大きかった。またこのような情勢を受け,フランスでは,同戦争末期に軍制改革を行い,18隊からなる常備軍を編成した。これは軍制の面から中央集権化を促進したのである。フランスでは,さらに加えて,ジャンヌ=ダルク(1412〜31)の出現が,国民意識を高めた。これらは相まって,王権を急速に進展させ,中央集権国へと移行させた。またイギリスでは,百年戦争を主因におきたばら戦争(1445〜85)による貴族の没落が王権の強化を著しく促進した。

 君主制軍隊の特徴は,軍隊が,国王にとって,すぐれてその権力行使の手段であったということである。したがって,君主制が確立するや否や,主権者たる国王は,武力の使用権を自己の手中に収めた。そしてほとんどすべての国において,軍隊と君主権とは平行して発達し,また両者は互いに他方を進展せしめていった。それを助けた最大のものの一つは,百年戦争が長期にわたったことから,兵士に俸給を支払う習慣が一般化したことである。これにより,君主は新しく生まれた歩兵に土地を与える必要はなく,流通経済時代となった手軽さから俸給を支払うことによって容易に多数の軍隊をまかなうことができた。その結果,君主は職業的傭兵をもつことが容易となった。とくにスイスでは食糧不足のため傭兵志願が多く,またスイスの民兵は勇敢であったので各国は盛んにこれを傭い入れた。イギリスではしだいに戦争のないときでも俸給を支給して,国王に奉仕する軍隊を常置するようになり,おのずから本格的常備軍が創設されていった。既述のごとく,傭兵はすでに古代から諸国において,その最盛期に採用されたが,給料をもってする職業的傭兵は,近世初頭の君主制とともに本格化し,国家統一のため君主に直属する兵力として,また海外市場を守る兵力としての必要から,大いに発達し,16世紀と17世紀には,ヨーロッパの各国の軍制は皆この制度によった。君主制軍隊への進展を助けたいま一つは歩兵の復活である。百年戦争においてイギリスの長弓隊が活躍したことから,フランスでも1448年,「自由射手隊」というものが創設された。これは歩兵の復活を示すものであり,また山国で騎兵の使えないスイスによって歩兵は装備・戦術の両面から完成されていった。歩兵の再現によって,戦いは集団間で行われるようになった。いうまでもなく,歩兵は君主にとって,兵力整備ならびに運用の両面の自由が大きく,常備軍に適するのである。なお歩兵の出現によって,騎兵がまったく姿を消したのではなかった。

 傭兵制度には多くの欠点があった。これについては,17世紀のフランスの軍隊についてあげると,第1は兵士の脱走が多く,士官だけで国軍の3分の1以上を占めた。第2は職務の兼務が行われ,とくに高級将校にあっては,それがふつうであった。第3は高職があまり多すぎ,野戦軍大将,大将,戦闘指揮官,連隊長などがいて,互いに権限を侵し合っていた。第4は階級の売買が行われ,これがため,軍隊の権威ははなはだしく破壊され,軍紀の維持を不可能にしていたことなどである。このような欠点に対してフランスのル=テリエ(1643,陸相)のとった軍事制度は,そのまま軍隊における君主制理念を確立したものといわれている。そのなかで彼は,国王が多額の金を支払っているその軍隊に対し,階層の確立されることを望むとし,幹部の階級制を定めた。すなわち総大将を最上位に置き,次に野戦軍大将および中将・騎兵旅団長を置いた。以上が将官級の将校で,国王から親任される。これから下は今日も存在する一連の階級であり,大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉がそれである。進級は名簿順により古参順に行われた。この結果大佐以下で階級売買は残ったが,兼職は廃止された。

 16世紀以後,軍隊の武器は多様になり,歩兵中隊は銃兵と槍兵とからなり,また17世紀には,特科兵種が編成され,砲兵隊と工兵隊ができた。

 17世紀になると,グスタフ=アドルフ王(在位1611〜32)のスウェーデン軍隊は,農民のあいだから徴募された国民的な精鋭部隊を中核に形成された。これはあらかじめ牧師が作成した15歳以上の青年の名簿によって10人について1人を選ぶという強制徴兵からなり,兵役期間は20年であった。彼はまた軍隊の機動力を強化し,いわゆる3兵(歩兵・砲兵・騎兵)戦術を創始し,さらに軍隊の精神的要素を確立するなど,多くの改革を行い,17世紀初頭目ざましい活躍をした精強な君主制軍隊(常備軍)をつくりあげたのである。プロシアのウィルヘルム1世(在位1713〜40)は,グスタフ=アドルフを手本とした徴募制度によって国民的な軍隊をつくり,最少の経費で有力な軍隊を常備することを考えた。そしてフレデリック大王(在位1740〜86)の代になって,アドルフ式の徴兵制を完成した。しかし当時250万くらいの人口では徴兵だけでは不足なので,多数の傭兵や捕虜を軍隊に編入した。したがって国民的な性格をもった軍隊といわれながら,まだ真の国民的軍隊ではなかった。

 1789年,革命勃発時のフランス軍隊はルイ16世治政下の君主制軍隊(常備軍)であり,スイスおよびドイツの傭兵からなる近衛兵と,抽せんによって農民から徴募した民兵とでできていた。これに対抗して蜂起した革命軍は,市民と農民であり,捕獲した武器で武装した程度であった。1791年には革命が激化するとともに,革命運動が国外にも波及しはじめたので各国君主間に,フランス進攻の謀議がめぐらされた。これはフランス国民の愛国心をあおった。「武器をとれ,市民諸君,武器をとれ,敵はわれわれの門前にいる」と革命委員会の檄が飛んだ。かくして義勇軍の徴募が相次いで行われた。1792年,ジロンド党の内閣は,王を動かしてオーストリアに宣戦させた。しかしプロシア・オーストリア両軍は直ちにフランスに侵入した。多数の義勇軍がパリに集まり,その兵力は45万に達した。義勇軍は軍事能力においては劣っていたが,情熱にもえ,士気はきわめて盛んで,このプロシア-オーストリア連合軍をヴァルミー(パリの東方150km)に破り(9月20日),ますます義勇軍を奮いたたせた。この戦いはルイ16世の封建的軍隊に対する,近代的国民軍の勝利として意義のあるものであった。しかし一方,動乱による経済危機は極度の社会不安を招き,また軍隊に対する被服糧食の給与の不円滑のため,軍隊の激減をきたした。このような情勢のとき,1793年1月,ルイ16世が処刑された。外国君主は大いに驚き,イギリスは列国と結んで第1回対フランス同盟をつくった。そこでこれに備えて国民公会は1793年2月,新兵30万の徴募を布告し,さらに1793年8月23日の法令は次のように宣言した。〈現在からのち,敵が共和国の領土から駆逐されてしまうときまで,全フランス人は軍役のために徴収されているものとする。青年たちは戦闘に出て行くであろう。既婚者たちは武器をつくり,糧食を輸送するであろう。婦人たちは天幕,軍服をこしらえ,病院で働くであろう。子どもたちは古麻布をほどくであろう。老人たちは公共的場所へつれてゆかれて,戦士たちの勇気を燃え上がらせ,国王たちに対する憎悪を煽り立て,共和国の統一を勧告するであろう〉。しかし実際には,19歳から25歳までの独身男子が〈強制徴募〉されたのに過ぎなかったが,それで543個の大隊を形成する45万の兵力ができあがった。この必任義務徴兵制は,平時になってから,1798年法律として制定された。この軍隊はナポレオンに率いられて,全ヨーロッパを蹂りんした精強な軍隊となり,そのほかの諸国もしだいにこれに倣うようになった。この武装国民を高らかに掲げた1793年8月の法令も,19世紀には色あせ,1841年ころには志願者と貧困者だけが入隊する職業軍隊となり,さらに第2帝政(1852〜70)時代には,傭兵的性格を強めた。以後1914年までの約40年間にフランス軍隊は一新されたといわれ,そのうち1873年の法律は,現代にいたる軍事組織の諸基礎を設定した。それは2個師団をもって1軍団,全18個軍団とするもので,1個師団は歩兵4個連隊,騎兵1個旅団,砲兵1個旅団,工兵1個大隊,輜重兵1個大隊である。さらに統帥と高等教育のため,1890年参謀本部,1880年陸軍大学,1910年常置航空統監部などがそれぞれ創設された。

 プロシアでは国民的軍隊でありつづけた。1814年の法律で兵役の義務を定め,現役3年,予備役2年,第1後備6年,第2後備7年,国民軍10年と定め,第1後備は平時の大部隊編成に備えるとともに野戦軍の一部に,第2後備は要塞守備にあてられた。1871年のドイツ憲法は,すべてのドイツ人に12年の兵役義務を課し,現役3年,予備役4年,後備役5年と定めた。また参謀本部は武器の進歩に配慮するよう特命され,1899年には砲兵は完全に再編成された。客師団は砲兵2個連隊,各軍団は重砲兵(150mm 榴弾砲,210mm 白砲)を付属させた。1914年には,動員し得る兵力は,382万2,000に達した。

 イギリスの軍制を顧みると,1642〜49年のピューリタン革命において,東部諸州の郷士・手工業者で,鉄騎隊を中核とした議会軍を編成し,常備軍(傭兵制)を主体とする国王軍を破った。クロムウェルは,議会軍を新編軍に改編し,独裁制の支柱として使用した。1660年王政に復古するや,国王は新編軍を解隊して新常備軍を編成し,その拡大を要求したが,議会は常備軍の抑制と民兵育成の方針を決定した。1688年の名誉革命によって,議会軍,国王軍の一元化とそれに伴う議会の統制が確立された。すなわち,海軍は永久組織法で認められたが,陸軍の規模は1年ごとの予算で統制されることとなり,またシビリアン=コントロールが生じた。しかし常備軍は依然傭兵制であったので,各州は1761年に志願制で有事召集を建て前とする郷士軍1個連隊を創設した。1906年,陸軍長官ホールディンは南ア戦争の教訓をとり入れて軍制を改めた。要点は,[1]正規軍は志願兵で常時動員態勢にある。[2]地方軍は志願兵制であるが,時間勤務で第2線部隊である。[3]陸軍予備は正規軍服役終了者と志願兵よりなる。これは現兵制の基礎となった。

 アメリカの軍制の始まりは1607年ヴァージニアに植民地が建設されて,それぞれの村をインディアンの襲撃から守るため,自然発生的に組織された民兵隊である。その後1682〜1863年のあいだに断続的に戦われた植民地戦争においては,イギリス本国から派遣された本国軍(常備軍)とともにフランス軍と戦った。しかしイギリス派遣軍司令官の指揮を受けたのではなかった。ついでおきた独立戦争において,1715年6月15日,植民地軍総司令官に任命されたジョージ=ワシントンは同7月3日,ケンブリッジにおいて初めて民兵隊を指揮して戦った。やがて正現軍が編成されたが,それでも平時の常備軍は,自由に対して危険であるとしてこれを避けることが独立宣言そのほかに定められた。かくて1787年制定の憲法は,連邦政府は小規模な常備軍を編成維持し,大統領は,最高指揮官として常備軍及び民兵隊を指揮するものと定めた。以後の改憲においても常備軍に対しては強い抑制がなされた。しかし南北戦争(1861〜65)においては,まず南北双方とも,諸州の民兵に呼びかけ,ついで徴兵(南部は1862年,北部はその翌年)を行うにいたった。4年間に連邦軍(北軍)は270万人を召集し,南部同盟は160万を召集した。これは徴兵により大兵力を動かす可能性を示したことになる。ついでアメリカ-スペイン戦争にさいしては,宣戦(1895年4月22日)と同時に制定された法律により,国民の兵役義務が明示された。1899年,法律家であり,かつ歴史の研究家であるエリュー=ルートが陸軍長官に就任するや,アメリカ-スペイン戦争の教訓や,欧州諸国の軍制も参考にして改革に着手した。その第1は能率の高い幕僚組織の確立で,現在の指揮幕僚大学の前身である一般軍務幕僚大学を設立し,ついで陸軍参謀本部を創設し,同時に陸海軍統合委員会を設けた。なお海軍作戦本部が独立したのは1915年3月である。またルートは,民兵隊を州兵軍と統一呼称することにし,正規軍と同一の編成・装備・訓練を施し,陸軍省州兵局長の指導統制下においた。かくて現軍制の基礎ができた。

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